「蔦屋重三郎」2025年大河の主役、多くのクリエイターを発掘した江戸の名プロデューサー・蔦重とは?

 2025年の大河ドラマ『べらぼう』の主人公である、蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した版元(はんもと)だ。「版元」とは、今でいうところの出版社である。江戸吉原で育った蔦重は、そのたぐいまれなる行動力と先見性、発信力で多くの芸術家を見出した。

 彼らとタッグを組み、次々と斬新なアイデアを生み出して江戸っ子を楽しませてきた蔦重。今回は蔦重のエネルギッシュな活動を紹介してみたい。それはきっと現代に生きる私たちにも大いに刺激を与えてくれるはずである。蔦重によって発掘されたクリエイターたちにも注目してみよう。

吉原で生まれた蔦重

 蔦屋重三郎が生まれたのは江戸・吉原、寛延3年(1750)のことである。父・丸山重助は吉原で何らかの仕事をしていたようだ。重三郎は7歳の時に喜多川家が吉原で経営していた茶屋・蔦屋へ養子入りし、蔦屋重三郎・蔦重となる。

蔦重に大きな影響を与えた吉原

 重三郎が生まれ育った吉原は江戸幕府公認の遊里である。当時の吉原は非常に知的で文化水準も高い場所であった。遊女屋の主人の中には俳諧をたしなんでいる者も多く、花魁クラスと遊ぶためには、相応の教養を備えていなければ相手にされなかったらしい。

 重三郎も吉原の暮らしの中で、教養を培い、文化人・通人と呼ばれる人々との交流もあったのであろう。それらは、重三郎が出版界で大いに活躍するための大きな財産となった。

吉原大門の図(『浮世絵板画名作集 第7回』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
吉原大門の図(『浮世絵板画名作集 第7回』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

それは小さな本屋から始まった!

 重三郎が初めて店を持ったのは、安永元年(1772)である。場所は吉原大門口の五十間道。茶屋の軒先を借りて始めた本屋だった。

 当時の本は大変貴重で、本を買える客というのは限られていた。そのため本屋の多くは貸本営業も行っていた。彼も貸本業を兼業し、吉原界隈で顧客を増やしていたのではないだろうか。その中で、重三郎はより一層、吉原の事情通となっていく。

蔦重が取り扱った吉原細見

 重三郎は鱗形屋孫兵衛という本屋が扱っていた「吉原細見(よしわらさいけん)」の販売元となる。吉原細見とは、簡単に言えば吉原のガイドブックだ。

 遊女屋の名前、遊女の名前や位、茶屋の名前、遊女の揚げ代、吉原で行われるイベント日、名物などが詳しく紹介されている。これがあれば吉原に行っても迷わずに楽しめる。とても便利な本だったろう。

チャンスは逃さない!

 安永元年当時、吉原細見は鱗形屋の独占状態だった。ところが、安永3年(1774)5月、鱗形屋の手代が出版界のルールを破る事件を起こし、次回刊行予定の吉原細見が出版できなくなった。吉原細見の出版元が突然いなくなったのである。

 重三郎はこの機を逃さなかった。いち早く吉原細見の出版に乗り出したのだ。重三郎が刊行した吉原細見は大人気となり、以後、吉原細見は蔦屋の独占状態となった。

蔦屋重三郎が安永8年(1779)に出版した吉原細見(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
蔦屋重三郎が安永8年(1779)に出版した吉原細見(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

アイデアでつかみ取った版権

 重三郎が最初に出版したのは「一目千本」という本である。一目千本とは、「一目で千本もの花(桜)を見渡すことができるほど多く咲いている」という意味だ。一目千本には、菊や百合、桔梗や牡丹などの花が描かれていた。それらの花は吉原の花魁たちを花に見立てて紹介をしているのだ。なんとも奇抜な遊女カタログは、吉原のみならず江戸中で注目を浴びた。

 一目千本も少し形の違った吉原細見であるが、その後に刊行された蔦重版の吉原細見も従来のものとは異なる。より見やすくわかりやすいレイアウトで、本のサイズも大きくした。

 たったそれだけのことだが、ずっと続けられてきた形を変えるということは、そうそう簡単ではない。重三郎自身の既成概念にとらわれない発想力、変化をいとわない決断力が彼にチャンスをつかませた。

 吉原細見の大当たりにより、蔦屋は軒先の本屋から独立した。

期を見るに敏な蔦重

 吉原細見は毎年2回の定期刊行物であり、安定的な売り上げが見込める。さらに重三郎は、手堅い売り上げが見込める別のジャンル本の出版にも乗り出す。それは三味線伴奏による語り物・富本節の稽古本と手習いで使用される往来物(教科書)である。

 重三郎の高感度なアンテナと経営力が、富本節人気の急速な高まりという流行を見逃さず、また長期にわたって売り上げが見込めるジャンルをつかんだ。

庶民の娯楽を支えた蔦重

 重三郎は、黄表紙(きびょうし)や戯作(げさく)、狂歌本(きょうかぼん)などを次々と出版する。

 黄表紙とは大人向けの知的な娯楽本で、狂歌本は風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ和歌形式の歌である狂歌を紹介する冊子だ。重三郎自身も蔦烏丸(つたのからまる)という名を持つ狂歌師として狂歌ブームの最前線にいた。

1791年に発行された山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』。蔦烏丸として蔦屋重三郎も登場している(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
1791年に発行された山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』。蔦烏丸として蔦屋重三郎も登場している(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 重三郎が企画した狂歌本は、狂歌だけでなく挿絵も加える今までにないものである。蔦重プロデュースは大当たりした。

 天明3年(1783)、重三郎の営む地本問屋・耕書堂は大手の版元が軒を連ねる日本橋油掛町に移転した。蔦屋重三郎は、商売を始めてわずか10年余りで江戸屈指の版元に成長したのである。

蔦重が育てた芸術家たち

 重三郎の成功の裏には、狂歌師・戯作者・絵師など各分野のクリエイターと築いたネットワークが大きく影響している。

狂歌師ネットワーク

 世を皮肉ったり、辛辣に批評したりしながらもユニークさが特徴的な和歌・狂歌を読む人たちはいずれも個性的なペンネームを持っていた。蔦重こと蔦唐丸と共に狂歌を読んだ仲間が以下の通りである。

  • 四方赤良/太田南畝/蜀山人(よものあから/おおたなんぼ/しょくさんじん)
  • 宿屋飯盛/石川雅望(やどやのめしもり/いしかわまさもち)
  • 手柄岡持/朋誠堂喜三二(てがらのおかもち/ほうせいどうきさんじ)

四方赤良こと、太田南畝の肖像(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
四方赤良こと、太田南畝の肖像(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 重三郎は、彼らを吉原に招き会を開くことで交際を深めた。狂歌師の集まりには、戯作者の恋川春町や山東京伝、絵師の北尾重政らもいた。そこで得た人脈は狂歌本だけでなく、戯作本の出版にもつながっていく。

戯作者・狂歌師・絵師のコラボ

 前述の事件の影響で鱗形屋の経営が傾き、黄表紙の出版も難しくなったところを狙ったかのように重三郎、鱗形屋で執筆をしていた春町・喜三二・京伝らを専属の作家にする。常々彼らと交流を深めていた重三郎の先見性が生かされた決断である。

 重三郎は狂歌師だけでなく戯作者と絵師をもコラボさせ、美しい絵を加えた黄表紙を出版した。絵を手掛けたのは、北尾重政や弟子の北尾政演(まさのぶ/山東京伝の絵師名)、葛飾北斎の師匠であった勝川春章らである。今までにない豪華な娯楽本は大人気となり、このジャンルにおいても蔦屋が市場を独占する勢いであった。

 実力ある戯作者を集める一方、重三郎は才能ある若き芸術家の発掘や育成にも力を注いでいる。

 『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴は、山東京伝の紹介により寛政4年(1792)頃から蔦屋の手代として働きながら執筆しているし、十返舎一九は蔦重の家に寄宿しながら戯作者として活動していた。

 重三郎は、まだ世間に名を知られていなかった喜多川歌麿に絵を描かせた狂歌本を出版することで、歌麿の浮世絵師としての名を広めることにも成功している。

 ちなみに江戸を代表する天才・奇才である平賀源内も重三郎と交流があり、蔦重版の吉原細見に序文を寄せている。

松平定信に目をつけられた蔦重

 爛熟した自由な文化を庶民が楽しむ時代であったが、天明7年(1787)新たに老中となった松平定信により終わる。寛政の改革を進める幕府は緊縮政策を行い、風紀の乱れを厳しく取り締まった。

寛政の改革で知られる老中の松平定信(出典:wikipedia)
寛政の改革で知られる老中の松平定信(出典:wikipedia)

追い込まれる戯作者たち

 執筆本が政治批判と見なされた戯作者が次々と標的にされた。喜三二は執筆活動を自粛し、幕府から呼び出しを受けた春町は自害とも取れる謎の死を遂げている。太田南畝も執筆活動を自粛。山東京伝は、執筆した洒落本(遊里が舞台になっている小説)が禁令に触れたとされ、手鎖50日の刑となっている。

 彼らの本を出版した重三郎も無傷ではなかった。財産の半分を罰金として没収されたのである。幕府は他の版元の見せしめとして、江戸で最も派手に活躍していた蔦屋・耕書堂に重い処罰を課したのだ。江戸の出版界は自重せざるを得なくなった。

蔦重、巻き返す!

 戯作が駄目なら浮世絵で勝負だとばかり、重三郎は新たな一手を打つ。

美人大首絵と役者絵

 この頃、蔦屋のライバル・西村屋から出版されていたのが、女性の全身を描いた鳥居清長の美人画だった。それに対抗するために重三郎が打ち出したのは女性の上半身だけを描いた美人大首絵(びじんおおくびえ)だ。

 大首絵とは、上半身を大きく描いた浮世絵である。描くは喜多川歌麿。これが大当たりし、歌麿は浮世絵界のトップに躍り出た。

歌麿の美人大首絵「婦女人相十品」(『喜多川歌麿 (六大浮世絵師決定版)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
歌麿の美人大首絵「婦女人相十品」(『喜多川歌麿 (六大浮世絵師決定版)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 重三郎が打ったもう一つの手が、写楽の役者絵だ。謎に包まれた絵師・写楽は衝撃的なデビューを飾り、一世を風靡すると風のように去っていった。写楽の正体が誰なのかわからないまま、彼が手掛けた役者絵は大評判となる。写楽の正体を明かさず、あっという間に浮世絵界から退場させたのも、もしかすると重三郎のプロデュースだったのかもしれない。

蔦重の粋な最期

 幕府の厳しい統制もはねのけた重三郎であったが、病には勝てなかった。寛政8年(1796)重三郎は脚気を患い、病床に就く。

 翌寛政9年5月6日。危篤状態だった重三郎は、自身の死を感じたのか、いきなり予告をした。

「今日の午の刻(昼の12時)に死ぬだろう」

 彼は自分の死後のことを指示し、周囲とも別れの言葉を交わす。しかし、予告時間になっても重三郎は生きていた。

「俺の人生は終わったはずだが、まだ命の終わりを告げる拍子木がならない。えらく遅いじゃないか」

 重三郎は人生を歌舞伎に見立ててこのような言葉を発したという。これが蔦重最期の言葉となった。この日の夕刻、重三郎は静かに亡くなった。享年48歳。

 耕書堂は番頭の勇助が「蔦屋重三郎」の名と共に継ぎ、明治初期まで5代続いたという。

あとがき

 蔦屋重三郎については、なんとなく聞いたことがあるという程度に知っていた。ところが北斎や写楽といった絵師が主人公の小説やドラマを見ていると、蔦重という人が頻繁に出てくる。それもちょっと個性的で面白い人だった。

 そこで興味を持ったのだが、調べてみるとそのエネルギッシュな人生と懐の深さ、才能を見出す能力に行動力!とりあえずすごい人だと思った。

 ”お上”ににらまれながらも、出版業を続ける心意気も格好いい。良くも悪くも個性のない、自分勝手な上のほうの人たちには蔦重の爪の垢を煎じて飲んでもらいたいものだ。と、私は思った。


【主な参考文献】
  • 『歴史人12月号増刊 蔦屋重三郎とは何者なのか?』(ABCアーク、2023年)
  • 『図説・江戸の人物254』(学研プラス、2004年)
  • 江戸人文研究会(編集)『絵で見る江戸の人物事典』(廣済堂出版、2013年)
  • 伊藤 賀一『日本史を動かした50チーム』(JTBパブリッシング、2021年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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