日本人とマグロ いまでは日本で大人気のマグロも、江戸時代は困った魚だった!?
- 2025/06/18

しかしマグロというのは困った魚で「大きいわ、肉はすぐに変質してしまうわ」で冷凍・冷蔵の技術が未発達であった時代には、畑で肥料にされることも少なくありませんでした。そんなマグロが私達の食卓に登る魚として認知されたのは案外に遅く、江戸時代の後半期の天保年間(1831~45年)あたりからのことでした。
今回はマグロを中心に江戸時代の鮮魚類についても含め、追ってみたいと思います。
マグロは東京湾でも大阪湾でも瀬戸内海でも取れない
マグロは大型の魚類で黒潮に乗って北上してくるので、日本近海でマグロを取るには東北以北の太平洋側の海となります。
江戸時代、マグロの水揚げが最も多かったのは北海道でした。北海道からマグロは江戸まで船で運ばれてくるのですが、当時は冷凍・冷蔵の設備がなく、しかもマグロが大きすぎて鯛やヒラメのように生け簀(いけす)に入れて生かして鮮度を保つこともできません。塩漬けにされたものか、比較的江戸に近いところで取れた場合等は、生の状態で運ばれてきたのです。
マグロの肉というのはすぐに鮮度が落ちてしまいます。しかも脂の多いところほど足が早く、中トロや大トロは最初にダメになってしまうため、生の状態のマグロで何とか食べられそうなのは赤身の部分だけでした。とはいえ、それもすぐにダメになってしまうため、もっぱら畑の肥料にされていました。
ちなみに塩漬けされたマグロに火を通した物は、とても不味かったため、超安価で手に入ったとか。およそ1kgあたり4文(1文を35円だとしたら140円)程度だったそうです。何しろ畑で肥料にしようという物を食べようというのですから相当に貧窮した食卓でないとマグロは出てきません。天保以前まではマグロを食べたことを人に言えば馬鹿にされるので、貧しい家が密かに買って密かに食べるものだったようです。
マグロは天日干しにすると、カチカチに固まってしまい、歯が立ちません。かといって加熱調理すると、ボソボソとした味わいになってしまいます。カツオをゆでたものを「なまり」と言いますが、安下宿の夕飯の定番は「なまり」で、これまた不味いものの代名詞です。マグロやカツオは生で食べるのが最高であり、加熱すると極端に食味が落ちてしまう困った魚達なのです。
しかし、冷凍・冷蔵設備のない江戸時代。もっぱら干物・塩漬け・味噌漬け・酢漬けにするしか保存方法はなく、一心太助などの魚売りが売っていたのも、こうした加工品が主体でした。加工品でも美味い魚は、いわし・あじ・さば・さんま等です。これらの魚は千葉の銚子で取れた物が塩漬けにされ、海運輸送で江戸の町に入り、食べられていたのです。しかし加工品でも決して安くはなく、一般庶民の食卓に魚が上がるのは週に一回程度だったそうです。
ヅケの発明とねぎま鍋
江戸時代初期の醤油は、江戸の近辺では作るところがなく、関西からの「下り物」だけで相当な高級品でした。しかし早くも3代将軍・徳川家光の寛永年間(1624~44年)には、千葉の野田や銚子で醤油作りが始まっており、段々と江戸にも安価な醤油が供給されるようになってきました。そして11代将軍・家斉の時代、天保年間に誰が試したのかは分かりませんが、マグロの赤身を醤油に漬け込んでみたのです。これがいわゆる「ヅケ」の始まりでした。ヅケは寿司ダネとしてあっという間に普及。江戸庶民にも大人気を博し、やっとマグロは正当な評価を得ることができたのです。
また、あらたな食べ方として脂の多い砂摺りの部分をヅケにして保存し、長ネギと一緒に鍋に入れて食べる「ねぎま鍋」というのが発明され、これも大人気を博しました。

とはいえ「ねぎま鍋」が人気を博したのは特殊な事情があったようです。ねぎま鍋を出す店はもっぱら朝に営業しており、それも土手八丁という吉原からの帰り道に軒を並べていたそうです。つまり、吉原から朝帰りの人達が寄る店で流行ったのです。
なんでも疲労困憊状態で、ねぎまで熱燗を一杯やると、高い栄養効果を発揮し、一気に体力が回復したのだそうです。そしてねぎま鍋はマグロの脂がしみ込んだ長ネギを味わうもので、ネギの合間に時々、ちょこっとマグロをつまむ程度だったそうです。
江戸時代の一般庶民の好みは淡白な味わいが好まれ、脂っこい味は敬遠されていました。「さんま」等も脂が強かったため、肉体労働を仕事とする人達の栄養補給として食べられていただけであり、一般家庭の食卓にあがるようなものではなかったそうです。
マグロの脂はさんまなどの脂とは違った味わいだったことで、庶民に受け入れられたのかもしれません。
冷凍技術の始まり
ヅケが流行して生のマグロの需要が高まると、漁船も市場も冷蔵設備を備えて可能な限り、マグロを新鮮に保つように努めました。ただし、最初のうちは、いわゆる氷冷蔵庫でした。大して温度は下げられず、まだ足の早いトロの部分は生で食べるまでには保てず、せいぜい少し新鮮な赤身が提供できる、といったレベルだったのです。このレベルがしばらく続きましたが、昭和初期の頃には、以前と違ってトロの部分も火を通せば食べられるレベルに保存機能が上がり、もっぱらお金のない学生が激安のトロを買って醤油につけ、つけ焼きにして食べるのが流行ったそうです。この食べ方は、かの北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん、1883~1959年)も著書で紹介しており、「マグロの雉焼き(きじやき)」という名前で紹介しています。

北大路魯山人といえば、陶芸家で美食を好んだ食通の人物として知られています。なんでも「おなかの空いているときには飯が飛んではいる」くらいに美味い物だったようです。ただ魯山人は「あくまで壮年期の人が好む下手美食」と評しています。
魯山人の時代において、一部はヅケではなく、刺身・寿司として賞味されていたらしく、だんだんと冷蔵技術が進歩していったことが伺えます。しかしこの頃に至っても、いまだトロは生では食べられず、赤身部分が何とか食べられるくらいだったようです。
魯山人は「マグロの茶漬け」というレシピを著書に残しており、また、マグロの寿司についても次のような言及があります。
北大路魯山人という美食の鬼ともいうべき人物だからこその言葉ととらえるべきでしょう。
また、少し後代になりますが、やはり食通として知られた文芸評論家の吉田一郎氏はマグロについて次のように記しています。
「なんともかとも美味いものである。こう書いていて、また食べたくなってきた」
冷凍技術が進めば進むほどマグロに対する評価は上がっていったことがうかがえます。

マイナス60度保存の開始
マグロ漁船も色々マグロを新鮮に保つ方法を模索しているうち、マイナス60度で急速冷凍すると、ほぼ取れたての状態がキープできるということを発見。いよいよマグロを私たちの食卓に近づけていきます。こうして取れたての状態のまま、市場に持ち込まれたマグロを食べた人達は、あらためてトロの美味さに気が付くのです。このときから赤身とトロの価格は逆転し、トロは一挙に高級食材へと変貌を遂げていきました。それとともにマグロの値段は高騰し、江戸時代には一尾20文くらいだったものが、現在では下手をすれば一億円です。現在では、ねぎま鍋すら「ご馳走」になってしまい、気軽に食べられない料理となってしまいました。これほど出世した魚はほかにはいないでしょう。
しかし、近所のスーパーでマグロの刺身やたたきを安く買って、食べることにできるようになったので、マグロ君も本望かもしれません。何しろ以前は畑の肥料だったのですから。
おわりに
なお、マグロの肉というのは大雑把に赤身・中トロ・大トロと3分類されていますが、実際には同じ部位でも場所によって味は異なるので、牛のようにもっと細かく分類されるべきもののようです。しかし既に3分類が一般的になってしまったため、もはや寿司屋でもそれ以上の分類はしかねるのが現状だとか。ちなみに北大路魯山人は、
「生きの良いおろしがあればわさびはなくもがな」
と記していますので、まぐろの刺身には、わさびよりも生きの良い大根おろしの方が合うようです。
そういえばツマとして、よく大根を細く切ったものが添えられていることがありますが、あれは刺身と一緒に食すべきものであるようです。また、まぐろの刺身を使ったまぐろ茶漬けも、かの魯山人が「関東では鯛茶漬けではなく、これを食べるべきである」と推奨するほど美味いものだそうです。一度、機会があったらお試し下さい。
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