文明開化で牛鍋が大繁盛!? 開化滋養の食料・明治初年の牛鍋屋
- 2024/12/17
福沢諭吉の「肉食の説」
背景には明治天皇が自ら牛肉をお食べになられたということ、そして福沢諭吉の「肉食の説」があったようです。少し肉食の説の冒頭を引用してみましょう。「天地の間に生るゝ動物は肉食のものと肉を喰はざるものとあり。獅子、虎、犬、猫の如きは肉類を以て食物と爲し、牛、馬、羊の如きは五穀草木を喰ふ。皆其天然の性なり。人は萬物の靈にして五穀草木鳥魚獸肉盡く皆喰はざるものなし。此亦人の天性なれば、若し此性に戻り肉類のみを喰ひ或は五穀草木のみを喰ふときは必ず身心虚弱に陷り、不意の病に罹て斃るゝ歟、又は短命ならざるも生て甲斐なき病身にて、生涯の樂なかるべし。」
つまり、動物には肉食と草食があるが、人間は万物の霊長なのだから両方食べるのが自然であり、健康、長生きの秘訣である、という訳です。
確かに江戸時代には動物性たんぱく質が魚以外にはなく、それも毎日食べられていた訳ではなかったので、江戸庶民の平均身長は150cmくらいであったそうです。植物性たんぱくである大豆は、納豆や豆腐として盛んに食されていましたが、それだけでは足りなかったのではないかと思われます。
牛鍋とは
文明開化の東京で流行った牛鍋屋の牛鍋とは、文久2年(1862)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた伊勢熊(いせくま)が1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したのが最初と言われています。この牛鍋ですが、醤油・酒・砂糖を混ぜた割り下( =調味した煮汁のこと)で牛肉と長ネギをぐつぐつと煮たものだったようです。現在でいう”関東風すきやき”と同じですが、しらたきや春菊、豆腐などは入っていなかったようです。
これに対し、”関西風すきやき”という、まず牛肉を割り下をいれず、熱い鍋にじかにいれて砂糖と醤油をふりかけ、焼肉のようにして食べて、それから割り下を入れて野菜と牛肉をいれる調理法もありました。
牛鍋を題材に文明開化の人々の様子を描いた仮名垣魯文の滑稽小説『安愚楽鍋(あぐらなべ)』の中にも「焼き鍋で一枚おくれ」という描写もあるので、関西風に食べることもできたようです。総じて考えると、牛鍋は現在でいうところの牛丼の具を鍋にしたようなものと考えればよいようです。
牛はどう確保していたのか
当時、農家では牛や馬を農作業をさせるために飼っていましたが、それらが食されることはなかったようです。江戸幕府は元治元年(1864)、居留地に指定されていた横浜の海岸通に屠牛場の開設を認めていることから、案外に早い段階で牛を食べても良いということになったのでしょう。ただ、その屠牛場に運ばれてきた牛は、もっぱら近畿地方や中国地方から神戸経由で東京に運ばれてきたとされています。これらの土地には既に家畜商という商売を営む者がいて、肉牛の売り買いをしていたのです。この点を考えると、東京よりも西日本の方が一早く、肉食の時代を迎えていたといえそうです。
江戸時代の東京では「薬食い」と称して肉食は”ほそぼそ”と行われていました。主にイノシシ(牡丹)鹿(紅葉)が主流で、現在でも東京の両国には「ももんじや」という野生のイノシシ・鹿・熊を食べさせる店があります。落語にも夜間にイノシシ鍋を囲む様子が描かれることがあることから、肉食はそこそこ行われていたらしいです。ただ、あくまで「薬食い」という主に病後の栄養食や虚弱児童の栄養補給などに用いられていたようで、一般的なものではありませんでした。
それに対して西日本、彦根藩(滋賀県彦根市)では、将軍献上品として牛肉の味噌漬けを毎年献上していたという記録もあります。すき焼きの語源は「農具のすきを火にかけて肉を置き、砂糖と醤油で焼いて食べていたこと」と言われるように、農民でも肉食を行っていたらしいことが分かります。
そしてこの食べ方は関西風すきやきに通じるものがあります。家畜商という商売が既に確立されていたという点から見ても、西日本では早い段階から肉食が行われていたとみるべきでしょう。ですから東京の牛鍋に使われた牛は西日本から船で横浜に運ばれてきてきたものが使われていたようです。
牛鍋屋で売っていたもの
牛鍋屋は牛鍋を食べさせるばかりでなく、製品の販売もおこなっていたらしく、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』の冒頭に以下のようにあります。薬食い[牛肉]、牛乳はミルク、乾酪かんらくは洋名チーズ、乳油ちちあぶらは洋名バター。牛陽たけり[牛の陰茎、強精剤]は、ことに潔く「あの肉陣の兵糧に」と、土産に買う者も非常に多い
なんと、ミルク・チーズ・バターを売っていたというのです。
これらに関する詳細な記録は他には見当たりません。チーズやバターは簡単に作れるものではないので、全ての牛鍋屋で売っていたとは考えにくいですが、そういう店もあったのでしょう。
バターは冷蔵しておかないとと思うのですが、当時は冷蔵設備等がなかったので、どのようにして保存していたのかは分かりません。輸入品の缶詰を売っていたのではないかと想像されます。
しかし『安愚楽鍋』が発表されたのは明治4~5年にかけてですので、非常に早い段階で急速に肉食と英語が普及していったことがわかります。バターも「ちちあぶら」とあるように、個体ではなく液体の缶詰を売っていたのかもしれません。
牛鍋おひとり様はいくらだったのか?
東京における牛鍋屋は明治8年(1875)には70軒になり、明治10年(1877)には550軒になったとありますので、一般庶民でも手の届く金額で飲み食いができたことがわかります。では、現在の貨幣価値に換算してみると、いくらくらいだったのでしょうか?『安愚楽鍋』から参考になりそうなところを抜粋してみましょう。
5 職人のむかっ腹
年季の入った大工が、こんなことを言っています。 ここから、当時のベテラン大工の日当が2分であったことが分かります。ちなみに、明治4年5月10日(1871年6月27日)に新貨条例という江戸時代の単位である両、分、朱、文から円、銭、厘に切り替える法律が施行されていますが、簡単には浸透せず、まだ、この頃は江戸時代の貨幣単位と円、銭、厘がごちゃまぜに流通している時代でした。ですので、ここでは”分”と言っている訳です。
旧貨幣と新円の交換は進まず、明治21年(1888)12月31日に交換停止になるまで、えんえんと続けられました。ですので明治初期の一般庶民にとって、江戸時代の貨幣単位の方が馴染み深く通用していたとみて間違いありません。
さて、厚生労働省の賃金調査によると、大工の場合は中堅大工で9千~1万5千円、棟梁になると1万8千~2万円が平均賃金とあります。『安愚楽鍋』に出てくる大工は話の内容から棟梁ではなく、その下についている大工のようなので、中堅大工に相当すると思われます。つまり9千~1万5千円です。真ん中をとって1万2千5百円としてみましょう。すると1分というのは6千円前後らしいことが分かります。
次に『安愚楽鍋』の宣伝もかねた前文である「奴論建」(どろんけん)には以下にようなシーンが出てきます。
つまり、2人で酒と牛鍋を食べて一人あたり2朱ということになります。4朱=1分ですので計算すると2朱は3千円前後ということになります。これが酔うほどに酒を飲み、牛鍋1人前を食べた勘定ですので単純に考えると、牛鍋は千円~千5百円程度だったのではないでしょうか。現在の貨幣価値から考えると、高過ぎず安過ぎずといったところでしょうか。これなら誰でも食べられたと思われます。
とはいえ、当時は新旧の貨幣が混合し、しかも質の良い貨幣と悪い貨幣が入り混じっていたため、「物の価格」は相当に混乱していたようです。ちょうど『安愚楽鍋』の5編に詳しく語っている部分がありますので紹介しましょう。
12 復古の今様話
また、髪結賃もその割合で丁度半分の値、と言って天保銭で払えば6倍になりますが、米はおおよそ12倍、反物類は6、7倍ゆえ、同じ割には参りませんが、大工や諸職の手間賃もみなそれぞれに上がりましたゆえ、米が高いと言ってさほどに困るはずはござりません。
つまり湯銭の場合、青四文銭なら2枚の8文でよく、文久銭、びた銭が混じると10文取られたということです。また、12文銭であれば4文の釣りをくれたということになり、貨幣の種類によって価値が異なる混乱した様子が伺えます。
特に徳川幕府が末期に大量発行した天保通宝は裏面に”當百”と書かれており、100文通用となっていましたが、明治時代には実質的な価値は1/6しかなかったらしいことが分かります。
おわりに
最後の戯作者と呼ばれる仮名垣魯文は、明治時代になってから活動を開始した戯作者で『安愚楽鍋』は代表作と言ってもよく、そこからは当時の人物像や諸事情が肌身に迫るように伝わってきます。彼以降、戯作者と読んで良い人物が現れなかったことを考えると、仮名垣魯文の果たした役割は非常に大きかったといえるでしょう。『安愚楽鍋』は現在では岩波文庫から安く出てますので、簡単に買えますし、江戸時代の浮世草紙に比べたら読むのが楽でたいへん楽しい一冊です。もしご興味がおありでしたら、一度手にとってみることをお勧めいたします。
【主な参考文献】
- 仮名垣魯文『安愚楽鍋』(岩波文庫、1967年)
- デイリーポータルZ 「牛鍋」と「すき焼き」の違いとは? 横浜の老舗2軒に聞いた
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