相撲の始まり 代々の天皇が好んだ相撲節会で宮中は大賑わい

 相撲の始まりは野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の勝負から、と言う事になっていますがもう少し詳しく見てみましょう。

相手を蹴り殺してしまった最初の相撲

 この物語は『日本書紀』に書かれていますが、11代 垂仁天皇7年のころ、大和国の当麻村に当麻蹴速という、豪傑だがとんでもない乱暴者がおり、常々豪語していました。

蹴速:「天下に我ほどの剛力の者はおらぬ。我に敵する者がおれば生死を賭けた相撲がとってみたいもの」


 これを聞いた帝。そして進み出た1人の臣下。

帝:「誰か蹴速の相手になる者はおらぬか」

臣下:「出雲国に野見宿禰と言う勇士がおります」

 さっそく宿禰を召して帝の御前で取り組みが始まりますが、「相対した2人、各々足を上げ蹴り合い宿禰の足が蹴速の脇骨を蹴り折り腰を踏み折りこれを殺す」と宿禰が蹴速を蹴り殺してしまいました。

野見宿禰が蹴速を持ち上げている図(『本朝相撲沿革』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
野見宿禰が蹴速を持ち上げている図(『本朝相撲沿革』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 相手を殺して終わっている物騒な話ですが、これが我が国の相撲の初めとされます。

 当時「相撲」は「すまひ」と読み、「負けまいとして争う、力を競い合う」と言う意味の「すまふ」の名詞形です。「角力」と書いたりもしますが、中国語で「角」は競う比べるの意味になり、力を比べるので「すもう」と読むようになったとの説もあります。

代々相撲好きの天皇、宮中の正式行事に

 日本最初の相撲にも天皇が関わっておられましたが、代々の帝も相撲好きだったようです。43代 元明天皇は女帝ですが富国強兵策を取り、武官の武術習得を奨励され、武人は勇武であらねばならぬとの仰せです。この流れを汲んだのか、45代 聖武天皇は天覧相撲を始めて行います。

 『続日本紀』によれば神亀5年(728)4月、全国の郡司に命じて「剛力無双の者を探し出し都へ連れて参れ」と命じられます。これで力士が集まったのでしょうか、天平6年(734)7月7日と同10年7月7日の2回、宮中で天覧相撲大会が開かれます。「天皇は相撲の戯をご覧になるべく南苑においでになった。文人に命じて七夕の詩を作らせ褒美を賜った」ともあります。

 なぜ7月7日七夕の日が選ばれたのか? 実は宿禰と蹴速の勝負も7月7日に行われています。七夕の節会は宮中の大切な五節会の1つで宮中で歌会が開かれますが、歌会だけでは面白くないと思ったのか、相撲が取り入れられ、組織立った宮中の行事として定着して行きます。

 後に相撲の節会として独立、弘仁年間(810~823)には内裏式の中に正式に定められます。当初は役人の人事や行賞を司る式部省の手で行われていましたが、やがて軍や兵器を司る兵部省の管轄になります。これは本来は祭儀だったものが次第に勝負事として見られるようになったことを表します。

おおいに盛り上がる宮中

 平安京遷都は延暦13年(794)ですが、桓武天皇はその2年後には早速、相撲の節会を行っています。この勇壮闊達な節会は大いに大宮人(おおみやひと。宮中に仕える人、宮廷に奉仕する官人のこと)が気に入ったらしく、仁明天皇の天長10年(833)には「相撲節会は娯楽遊戯の類ではない。武力鍛錬が目的である。ゆえに越前・加賀・能登・上野・・・下総・安房などの諸国に命じて膂力人を探し貢進すること」と勅命まで出されます。

 ただ、このころは国を挙げて富国強兵に努めていたようで、各地の有力豪族がこれと思う豪傑を抱え込んでしまい、勅命が下されてもなかなか思うような人材が集まりません。現在の大相撲は年六場所ですが、そのころは年1度だけの大宮人が楽しみにしていた大切な宮中儀式です。

 人数が揃わなければ、毎年2月か3月になると左右の近衛府から、日本の東西に人や物などを宰領して輸送する部領使い(ことりづかい)が遣わされ、諸国から剛力の者、大兵の者を集めにかかります。勅命とあって諸国の国司や郡司は懸命に村や里を探して相撲人を掻き集め、6月の始めを期限として都へ送り込みました。

その頃の取り組み

 相撲節会は2日間に渡って開催され、初日は相撲人が顔見世の後 “内取(うちどり)” と言って東方同士、西方同士の取り組みが披露されます。現在の内取は相撲部屋での稽古を指します。本番当日は宮中紫宸殿の前庭に天皇や皇族・貴族が集まって見守る中、東西対抗20番勝負が行われました。

 左近の桜と右近の橘の陰が力士の控え席となり、左の力士は髷に葵の花を、右の力士は夕顔の花を挿して進み出る華やかさです。これは作り物の花で葵は火を、夕顔は水を表しており、火と水の戦いに豊作への祈りが込められていました。

 当時は取り組みを裁く行司はおらず、土俵もなく、相手を地面に倒した方が勝ちです。ただ、“相撲長(すまいおさ)”という、見届け役兼世話役が控えていて、髪が酷く乱れたり褌が緩むと、さっと出て行って力士を土俵外に連れ出してこれを直します。また、勝負が長引くと両力士を引き分け、承明門の方へ下がらして預かり相撲とし、次の取り組みを始めるのも相撲長の役目でした。この辺りは相撲長の見せ場ですね。

 勝負がつくと、役人が地面に矢を突き立て、勝った相撲人は “乱声(らんぞう)” という勝鬨を上げ、楽人が舞楽を奏しました。左が勝てば “抜頭(ばとう)” 、右が勝てば “納蘇利(なそり)” と決まっています。勝負がはっきりしないときは天皇や公卿の判断を仰ぎました。見物人は紫宸殿で勝負を見ながら三番の取り組みと四番の取り組みの間に宴会を始め、料理や酒を楽しみます。

おわりに

 宮中での相撲節会は、12世紀半ば貴族の世が武士の世に取って代わろうとするころに衰退しますが、相撲自体はその後も盛んに行われました。

 寺社の祭礼で神に捧げる奉納相撲も良く行われ、取り組みを専門に見せる集団が現われます。彼らが各地の寺社をまわって奉納相撲を捧げたり、地方へ巡業して寺社が開く相撲大会で見物料を取って稼ぐようになりました。見物料は寺社の修造費に充てられることもあり “勧進相撲” として定着します。

平安末期、河津三郎と俣野五郎の相撲図(『本朝相撲沿革』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
平安末期、河津三郎と俣野五郎の相撲図(『本朝相撲沿革』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 貴族に変わって世の主人となった武者たちが体の鍛錬として相撲を好み、源頼朝や織田信長など権力者の相撲好きも相撲の興盛を後押ししました。


【主な参考文献】
  • 飯田道夫『相撲節会』人文書院/2004年
  • 半藤一利『大相撲人間おもしろ画鑑』小学館/2008年
  • 河合敦『テーマで歴史探検』朝日学生新聞社/2016年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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