【福岡県】水城の歴史 大宰府を守るために築かれた巨大防塁
- 2025/05/21

水城は天智天皇の治世で築かれ、大宰府を防衛する目的があったといいますが、なぜそんな場所に防塁を築く必要があったのか?また高度な築城技術はどこからもたらされたのか?その謎を解きつつ、水城の歴史を紹介したいと思います。
混沌とする7世紀の東アジア情勢
7世紀中頃の日本を取り巻く状況は、朝鮮半島における複雑な情勢が絡んでいたことで混沌としていました。当時の朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が覇を競い合っていましたが、それぞれが日本と朝貢関係にありました。いわば日本が敵陣営につかないよう約束を求めるものであり、そこには安全保障上の理由があったからです。
こうした中、新羅が唐への従属姿勢を露わにしたことで、急速に日本との関係が冷え込むことになります。白雉2年(651)には、新羅使節団が唐の制服を着用して来日したことで、日本側では「新羅討つべし」という声まで上がったほどです。
斉明天皇元年(665)、高句麗・百済の侵攻によって、新羅は窮地に立たされました。唐の皇帝は「新羅支援のために出兵せよ」と日本へ勅命を下すのですが、新羅と険悪な関係にあったことで、日本側は黙殺で応えたといいます。しかし、唐の出兵命令に従わなかったことで、日本は俄かに危機感を強めました。唐・新羅連合軍の侵攻がありうると考え、飛鳥京の背後にあたる多武峰に城を築いています。
ただ、唐・新羅の標的は日本ではありませんでした。高句麗征討の一環として、まず百済を討滅しようと目論んでいました。斉明天皇6年(660)、18万に及ぶ唐・新羅連合軍が百済へ侵攻し、たった4ヶ月で王都は陥落。王族や貴族が唐へ連行されたことで、百済はここに滅亡を遂げるのです。
結果、日本は大きな危機を迎えることになります。それまで百済は、唐の脅威に対する防波堤の役割を果たしてきたのですが、頼みの百済が滅亡したことで、軍事的脅威が日本へ直接及んできたからです。
「水城」建設のきっかけとなった白村江の戦い
百済は滅亡したものの、その遺臣たちによって再興運動が始まっています。その中でも百済王族出身の鬼室福信(きしつ ふくしん)は、果敢に抵抗活動を続けつつ、各地で占領軍を撃破しました。また、福信が軍事支援を求めてきたことで、日本側も百済救援を決定。大規模な派兵を約束しています。斉明天皇7年(661)、日本で保護されていた義慈王の子・豊璋(ほうしょう)を旗頭として、阿倍比羅夫(あべ の ひらふ)が率いる第一次派遣軍(5千)が渡海しました。比羅夫は百済人とともに戦い、厳しい戦局を支えたといいます。
さらに天智天皇2年(663)3月には、第二次派遣軍(2万7千)が朝鮮半島へ渡りました。しかし日本軍にとって痛手だったのは、指導者の鬼室福信が、即位して間もない百済王・豊璋と対立し、暗殺されてしまったことです。こうして百済軍は急速に抗戦能力を低下させていきました。
そうした状況の中、日本軍は乾坤一擲の反転攻勢を目論みます。錦江下流の要衝・周留城を包囲する唐・新羅連合軍に対し、決戦を挑もうとしたのです。これがいわゆる「白村江の戦い」で、8月27、28日の両日にわたって、日本軍は唐・新羅連合軍と対戦しました。
しかし、結果は見るも無残な惨敗に終わります。400艘に及ぶ兵船が焼き払われ、数えきれないほどの兵が命を落としました。まさに鎧袖一触といった状況で、日本軍はほとんど何もできないまま敗れ去ったのです。
敗戦の理由は明らかでした。
まず一つに、日本側には百済救済の全体的戦略が欠如していて、場当たり的な行動が目立ち、白村江の戦いで兵力を小出しにしてしまったことが仇となっています。また、記録によると、日本軍の兵船が「舟」と記述されているように、貧弱な兵備しか持たなかったことです。一方の唐軍には戦艦規模の「戦船」が配備されていたので、軍備面で大きな格差があったのでしょう。
そして最も大きな要因となったのが、統率の不備です。たしかに日本軍には、前・中・後といった軍事体系が見られますが、それは渡海した序列でしかありません。つまり全体を統括する司令官がいなかったのです。しかも日本軍の中核を成していたのは、西日本各地から集められた豪族たちであり、統率も士気も組織もまったくバラバラの状態でした。これで勝利するのは、ほぼ奇跡に近かったことでしょう。
敗戦からまもない9月25日、ついに日本軍は朝鮮半島から撤退。百済王族や貴族もこれに従い、日本へ亡命を果たしたといいます。百済再興の可能性がなくなったと同時に、日本は大きな危機を迎えようとしていました。勝ちに乗じた唐・新羅連合軍の日本侵攻が、現実味を帯びてきたからです。
そうした情勢下で、いよいよ巨大防塁「水城」が歴史の表舞台に登場するのです。
大宰府防衛の要となった水城
厳しい情勢の中、時の天智天皇は外交・内政の両面で対応を迫られました。まず唐に対する恭順外交を展開し、百済滅亡の承認、朝鮮半島への不介入、唐への恭順などを唐側の使者に誓約しています。いっぽう唐・新羅による対日侵攻に備えるため、天智天皇3年(664)から西日本一帯に、多くの山城を築くことで、堅固な防衛態勢を構築しました。
もちろん、当時の日本に大規模城郭を築く技術はなく、それらは亡命百済人の築城技術を用いたものです。これらの古代山城が「朝鮮式山城」と呼ばれる理由はそこにあります。
九州地方の内政・外交・軍事の拠点となった大宰府へ至るには、博多湾から福岡平野を抜け、筑紫平野へ出るしかありません。その関門にあたる狭隘部に水城が築かれました。敵が迂回した場合に備えて、西側には「小水城」と呼ばれる防塁も完成しています。
万が一、唐・新羅連合軍が博多湾から上陸したとしても、長大な防塁があれば阻止できると考えられました。水城はそのような意図のもとで築かれたのです。
そんな水城の構造ですが、当時としては最新の土木技術が用いられました。その全長は約1.2キロメートルに及び、高さ約13メートルの土塁が延々と聳え立っていたようです。
土塁について
土塁の前面は斜度70°に及ぶ急峻な斜面になっていました。その真下には幅10メートルほどのテラス状台地が造られており、これを「押さえ盛土」といいます。これは土塁が崩落して滑り込むのを防止する役目がありました。逆に大宰府側の傾斜は緩やかになっており、基底部が広い構造となっています。
土塁の築造については「版築工法」が用いられました。これは真砂土と粘土を交互に突き固めることで、強度と耐久性を確保するもの。また、軟弱地盤を補強する意味で基底部に樹木の枝葉を敷いたり、木材を枕木状に並べるといった「敷粗朶工法」や「梯子胴木工法」などが採用されていたようです。
「大堤を築きて水を貯えしむ。名付けて水城という」
『日本書紀』において、上記のように水城のことを記しているように、外側(博多側)には満々と水を湛える濠がありました。その幅は往時で60メートルあったとされています。それを裏付けるのが、水城基底部に埋設された木樋です。昭和6年(1931)の調査によれば、木樋は全長79.5メートルに及び、材質は杉材などで出来ていたとか。水城を貫くように流れる御笠川を堰き止め、階段状に堰を設けて貯水したと推測されています。
城門について
次に、防塁の内外を行き来する城門は、東西に2ヶ所ありました。東門跡は旧国道によって大きく開削され、わずかに「鬼の硯石」と呼ばれる礎石を留めているに過ぎませんが、西門跡は発掘調査によって、三度も変遷を辿ったことが明らかとなっています。

最初期にあたる第1期は、門柱に横木を渡しただけの簡素な「冠木門」でした。土留めの石積みを伴うものの、その間口は約4メートル程度と狭く、おそらく人馬の往来より防御機能を優先させたのでしょう。国家存亡の中で緊張した雰囲気が伝わってくるようです。
次いで第2期では、礎石を伴う瓦葺きの門となり、「八脚門」だったことが想定されています。間口も約11メートルと広くなり、これは対外的な危機が去り、なおかつ律令体制に成立によって、物流を担う道路としての役割が優先されたためでしょう。
第3期になると、路面が1.5メートルほど嵩上げされ、間口がさらに広げられました。また土塁の頂部から、平安時代の瓦が大量に出土しているため、おそらく二階建ての楼門があったのでは?と推測されています。
ちなみに9世紀中頃以降には、新羅との緊張が再び高まったことで、一転して防御機能を重視した城門へ変更されました。このように水城の城門は、東アジア情勢の変化と密接に連動していたのでしょう。
水城は、大宰府羅城の一部に過ぎなかった!?
平成27年(2015)10月、ちょうど水城から南東方向にあたる前畑遺跡で、全長500メートルに及ぶ土塁が発掘されました。水城と同じ版築工法が用いられており、これは7世紀後半に相次いで築かれた、朝鮮式山城や防塁と共通しています。また土塁外側は急峻な法面となっていて、明らかに東からの敵を意識した造りとなっていました。このように城壁(土塁・石塁)で都市を囲む防衛機構は「羅城」と呼ばれており、中国大陸を中心に発達しています。朝鮮半島でも羅城が発見されていて、古代百済の首都・涸批(さび)でも同じ方法が用いられたようです。
『日本書紀』によれば、亡命してきた百済人たちによって、大宰府があった周辺に水城、次いで大野城や基肄城などが築かれており、周囲の山々など自然地形を取り込んだ羅城があったのでは?と長く議論されてきました。
もしかすると前畑遺跡で発見された土塁は、それを裏付ける証拠かもしれません。それが真実なら、大宰府を中心に大野城・基肄城・阿志岐山城などが周囲を取り囲み、それらを巡るように巨大防塁が繋がっていたことになります。つまり、水城は総延長51キロメートルに及ぶ防塁のうち、ほんの一部に過ぎなかったのかも知れません。今後の研究に期待したいところです。
外交的緊張が緩和されたのち、朝鮮式山城の多くは8世紀の早い段階で廃絶したものが多く、軍事施設としての機能は失われていきました。ただし、水城は大宰府の関門である以上、その後も残り続けたようです。鎌倉時代中期の元寇の際、防御施設として利用された記録も残っており、600年を経た段階でも十分に機能していたことがうかがえるのです。
現在、水城は国の特別史跡に指定されており、現在に至るまで整備・保存が進められてきました。しかし大宰府羅城の全貌については不明な点が多く、今後研究の進展が待たれるところです。

おわりに
水城を「城」と見るか?それとも単なる「防塁」と見るかは意見が分かれるところですが、もし大宰府を中心とする羅城の一部だったとすれば、その見方は大きく変わってくるでしょう。あの小田原城の壮大な惣構ですら、総延長が9キロメートルですから、大宰府羅城はその5倍の広さがあったことになります。ちょうど同じ時期、多くの朝鮮式山城が西日本各地に出現しましたが、莫大な費用といい、膨大な労力といい、まさしく国家の命運を賭けた巨大プロジェクトだったに違いありません。
補足:水城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天智天皇2年 (663) | 日本軍、白村江の戦いで惨敗を喫する。 |
天智天皇3年 (664) | 筑紫の地に水城を築く。 |
天智天皇4年 (665) | 大宰府防衛の要となる大野城と基肄城を築く。 |
天平神護元年 (765) | 対新羅外交の緊張に伴い、水城が修築される。 |
11世紀後半 | 大宰府が廃止される。 |
文永11年 (1274) | 文永の役の際、水城が日本側の防御拠点となる。(八幡愚童訓による) |
大正2年 (1913) | 東京帝国大学の黒板教授によって、土塁断面の調査が行われる。 |
大正10年 (1919) | 大宰府跡と水城跡が史跡指定される。 |
昭和5年 (1930)頃 | 九州帝国大学の長沼教授によって、水城跡の木樋に関する発掘調査が行われる。 |
昭和28年 (1953) | 国の特別史跡に指定される。 |
平成29年 (2017) | 水城跡東門の北側に展示施設「水城館」がオープンする。 |
同年 | 続日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
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