【愛知県】刈谷城の歴史 三河にあるのに織田の城だった!?家康と関わりの深い水野氏が築城

刈谷城址碑(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%88%E8%B0%B7%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
刈谷城址碑(出所:wikipedia
 名鉄刈谷駅から北西へ250メートルほどの場所に亀城公園があります。そこはかつて西三河を領し、松平氏(徳川氏)と深い関係にあった水野氏の居城がありました。それが「刈谷城(かりやじょう)」です。

 三河といえば徳川家康の領国というイメージがありますが、実は水野氏は織田氏に属していた時期があります。つまり三河に位置しながら、刈谷城は織田家臣の城だったわけですね。今回はそんな刈谷城の歴史について、詳しくひも解いていきましょう。

水野忠政によって刈谷城が築かれる

 水野氏は清和源氏満政流の系統だと伝えられますが、尾張源氏の祖・源重遠の子が、尾張国知多郡小河へ移り住んだことから小河と称したとされています。

 しかし、初代・小川重房の子である重清は、承久の乱で宮方に味方してしまい、敗れて尾張国春日井郡水野郷へ移り住みました。そこで地名をとって水野姓に改めたといいます。

 さて、南北朝の争乱が始まると、時の当主・水野正房は足利尊氏に属して戦いますが、土岐氏に攻められて敗死。水野一族は離散のうえ流浪してしまいました。それから100年後の応仁年間(1467~1469年)、三河をめぐって一色氏と細川氏が相争うようになると、その中で勢力を伸ばしてきたのが水野貞守です。

 緒川城を拠点に、尾張知多郡から三河碧海群へ支配圏を広げ、文明18年(1476)頃に最初の刈谷城を築きました。これが「刈谷古城」と呼ばれる中世城館ですが、衣浦湾を抑えることで周辺の海上交通を掌握したといいます。

 貞守の曾孫にあたる水野忠政の時代になると、水野氏の勢力はますます大きくなりました。緒川城を本拠に、刈谷古城・大高城・常滑城などを支配下に置き、知多半島一帯を支配していきます。そんな中、忠政は刈谷古城から1キロほど北の地点に新しい城を築きました。それが天文2年(1533)に築城された刈谷城です。

刈谷城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 現在の刈谷城は逢妻川沿いにあって、内陸の城と思われがちですが、当時は衣浦湾が目の前に迫る要害でした。また、城の北側と南側は浸食谷に囲まれていて、東側を大手にしていたようです。つまり、敵が攻めてくるのは東方向しかなく、典型的な後堅固(=お城の後ろが丈夫で、すぐには崩されないという意)な城となっていました。

 この時期、西は尾張の織田信秀が頭角を現し、東からは今川義元が領土拡大を狙っており、さらに松平清康は三河国を統一しつつありました。そんな切迫した状況の中、忠政は領国統治と周辺に睨みを利かせる意味もあって、刈谷城の築城に踏み切ったのでしょう。

たった一度だけ落城を経験した刈谷城

 三河において、水野氏と重要な関係にあったのが松平氏です。

 忠政の最初の妻は岡崎城主・松平昌安の娘ですし、嫡男・信元の妻は松平清康の叔父にあたる松平信定の娘でした。しかし清康が「守山崩れ」によって斃れると、松平氏の求心力は急速に低下していきます。

 そんな中、忠政は織田方に属して岡崎城を攻めるなど敵対行動を取りますが、やはり水野氏にとって松平氏は重要なパートナーだったようです。松平側からの婚姻申し入れを受諾した忠政は、娘の於大を松平広忠へ嫁がせることで友好関係を保ちました。松平氏と深く繋がりながら、織田氏に協力する姿勢を取り続けることは、水野氏が生き残るための最善の手段だったようです。

 こうした蜜月の時期に誕生したのが竹千代(のちの徳川家康)ですが、忠政が亡くなったことで両者の関係は急速に悪化していきます。跡を継いだ信元は方針を一転させ、今川と手を切って織田への従属を明らかにしたのです。

 こうなると婚姻関係も維持できなくなり、於大は離縁されることになります。於大は刈谷城へは入らず、城の北東に位置する「椎の木屋敷」を住居に定めました。そして岡崎へ残してきた竹千代と、両家の安泰を祈ったといいます。その後、信元は一貫して織田従属の方針を変えることはなく、織田家臣としての立場を鮮明にしていきました。

※参考:織田・水野・松平関係略系図
※参考:織田・水野・松平関係略系図

 そして永禄3年(1560)、桶狭間の戦いが起こります。この合戦で総大将の義元を失った今川軍は一斉に退却していきますが、唯一、気骨を見せた人物がいました。それが鳴海城を守っていた岡部元信です。

 義元の首と引き換えに城を明け渡すものの、手柄がないまま退却することを良しとしなかった元信は、途上にあった刈谷城へ攻め込みます。折しも城は信元の弟・水野信近が守っていましたが、わずかな城兵では防ぐことができませんでした。元信は忍びの者を城内へ侵入させ、さらに海側から100人ばかりで押し寄せます。火を掛けられた城中は混乱し、ついに信近は討たれてしまいました。

 この時、緒川城から水野家臣・牛田玄蕃が手勢を引き連れて駆けつけ、刈谷城から岡部勢を追い落としたといいます。さらに追撃を掛けて、信近の首を取り返してみせたとか。

 ちなみにこの合戦は、刈谷城が落城した唯一の戦いとなりました。

刈谷城主に返り咲いた水野忠重

 桶狭間で今川軍が敗北したのち、松平元康(徳川家康)は織田方の侵攻を食い止める役割を担います。そして織田に与する水野信元との間で、石瀬川の戦いや、刈谷十八畷の戦いなど、激戦を繰り広げました。

 やがて今川氏の支配から独立する決意を固めた元康は、織田方との和睦を模索するようになります。何度かの交渉が重ねられたのち、ついに清州同盟が締結。この時、信長・元康・信元の三者は血判したうえ、牛玉宝印を三つに割いて飲み込んで誓ったとされています。

 織田との同盟を果たした元康は、改めて徳川家康と名乗りますが、険悪だった水野と徳川の関係も徐々に好転していきました。信元にしても家康は実の甥ですから、たびたび助言などを授けていたそうです。蜜月だったかつての友好関係が戻ったわけですね。

 ところが天正3年(1575)年のこと、信元に不運が訪れます。なんと織田重臣・佐久間信盛の讒言によって、武田氏へ内通しているという嫌疑を掛けられたのです。

 信元は疑いが晴れるまで大樹寺で待ちますが、信長の怒りが解けることはありませんでした。やがて徳川家臣・平岩親吉によって討たれたといいます。その後、刈谷城と水野氏の所領は信盛へ与えられ、水野旧臣たちは退けられて離散を余儀なくされました。

 なお、『改正三河後風土記』によれば、信元には2歳になる男子がいて、程なくして土井家に引き取られたといいます。その人物こそ、のちに幕府大老へ登り詰めた土井利勝です。ちなみに利勝から数えて4代目にあたる土井利信は、のちに刈谷藩主になっていますから、実に不思議な縁と言えるでしょうか。

 さて、天正8年(1580)のこと、佐久間信盛が信長の勘気を蒙って高野山へ追放されてしまいます。すると信長は、信元に罪なきことを悔いて、弟の忠重に家督を継ぐことを命じました。忠重はかつての旧領を与えられ、刈谷城主として復帰します。その後も信長の下で軍功を重ね、高天神城攻めなどで活躍しました。

水野信元の弟、水野忠重の像(出典:wikipedia)
水野信元の弟、水野忠重の像(出典:wikipedia)

水野氏の時代から太平の世へ

 本能寺の変(1582)ののち、忠重は織田信雄の味方となって天正12年(1584)の小牧の役で活躍しました。やがて羽柴秀吉の誘いに応じて直臣となり、武者奉行を務めたといいます。

 そして秀吉による九州攻め(1586~87)が終わると、忠重は刈谷城を離れて伊勢神戸へ移封されました。代わって刈谷城へ入ったのが秀吉の甥・羽柴秀次です。とはいえ、自身はほとんど在城することなく、家臣に支配を任せていたそうです。

 秀次事件の直前に刈谷城へ戻された忠重ですが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前、酒宴での諍いが元で殺されてしまいます。折しも嫡男・勝成は家康に従って下野小山にいましたが、家康はすぐさま勝成の家督相続を命じました。そして刈谷城に残る水野家臣に対し、勝成をしっかり支えるよう書状を遣わしています。

 関ヶ原の戦いののち、勝成は家臣団をまとめて刈谷城主となりました。ただ勝成の治政においては検地すら実施されなかったことから、相次ぐ戦乱で気が抜けない状況が続いたことがうかがえます。
やがて大坂の陣が終わると、勝成は刈谷3万石から大和郡山6万石へ転封し、代わって弟・忠清が刈谷藩主となりました。

 水野時代の刈谷城についてですが、現在は城跡の改変が著しくて往時の様子はうかがい知れませんが、城下町絵図が38点ほど現存していることから、そこから推測が可能になっています。

 水野氏が治めていた時代、曲輪配置は梯郭式になっており、本丸には4つの隅櫓と多聞櫓がありました。また隅櫓のうち、北西隅櫓は三層造りになっていて、これが天守の代わりになっていたものと考えられます。
さらに城の西側は海に面していますから、そこには石垣が築かれて舟着き場がありました。ここから城内へ運ぶ米などの物資が荷揚げされていたのでしょう。また水手番所では海上を通行する舟の監視が行われていたようです。

 ただし正保年間(1644~1648)に作成された「正保城絵図」によると、隅櫓の数は3つに減っています。さらに時代は下って明暦~寛文年間(1655~1670)にかけての絵図では、隅櫓は2つを残すのみとなり、江戸時代後期になると隅櫓の記載すらなくなってしまうのです。
おそらく風水害や地震による倒壊によるもので、再建すらされなかったことがうかがい知れます。刈谷藩は1~5万石ほどの小藩ですから、建て直すほどの財源が確保できなかったのでしょう。

 いっぽう刈谷藩内には東海道が通っていることから、宿駅である池鯉鮒(ちりゅう)宿が発達していました。また刈谷城を中心とする城下町も発展し、現在の産業都市・刈谷の原点となっています。

 現在は亀城公園となっている城跡ですが、平成期に6次にわたって発掘調査が行われました。この時に石垣や辰巳櫓・表門や裏門などの位置が特定され、礎石なども検出されています。また江戸時代の瓦の他に、慶長期の瓦も出土していることから、水野時代には瓦葺きの建造物が建っていたことが推察されるのです。

 刈谷城は幕末に至るまで、9家22人の藩主によって治められましたが、明治になって城は破却され、かつての面影はあまり残っていません。しかし戦後になって城址公園として整備されたことにより、現在は桜の名所として市民の憩いの場となっているのです。

上空からみた亀城公園(愛知県刈谷市城町)
上空からみた亀城公園(愛知県刈谷市城町)

おわりに

 亀城公園では、平成31年(2019)に刈谷市歴史博物館が開館しました。そして今後は隅櫓や城門などが復元されて、城址公園として再整備される予定だとか。

 ちなみに刈谷市郷土資料館には、往時の刈谷城を再現した復元模型なども展示されていますから、現在のお城の様子と比べてみると面白いかも知れませんね。今後、刈谷城がどのような姿に生まれ変わるのか?楽しみで仕方ありません。

補足:刈谷城の略年表

出来事
文明8年頃
(1476)
水野貞守によって刈谷古城が築かれる。
天文2年
(1533)
水野忠政が刈谷城を築城。緒川城から本拠を移す。
天文10年
(1541)
忠政の娘・於大が松平広忠へ嫁ぐ。
天文12年
(1543)
忠政が死去。跡を継いだ信元が松平氏との関係を解消する。
永禄3年
(1560)
桶狭間の戦いの直後、岡部元信によって刈谷城が落城。
永禄5年
(1562)
清州同盟が締結される。
天正3年
(1575)
嫌疑を受けた信元が暗殺され、刈谷城が佐久間信盛に与えられる。
天正8年
(1580)
信盛の追放に伴い、水野忠重が刈谷城主へ返り咲く。
天正15年
(1587)
忠重が伊勢神戸へ移封。代わって羽柴秀次が城主となる。
文禄3年
(1594)
再び忠重が刈谷城主となる。
慶長5年
(1600)
忠重の死に伴い、嫡男・水野勝成が刈谷城主となる。
元和元年
(1615)
勝成が大和郡山へ移封。代わって弟・忠清が刈谷藩主となる。
寛永9年
(1633)
水野忠清に代わって松平忠房が刈谷藩主となる。以後、譜代大名が入封を繰り返す。
明治4年
(1871)
廃藩に伴って刈谷城が破却される。
昭和11年
(1936)
当時の刈谷町によって公園として整備される。
平成31年
(2019)
公園内に刈谷市歴史博物館が開館。


【主な参考文献】
  • 中井均・鈴木正貴ほか「東海の名城を歩く 愛知・三重編」(吉川弘文館 2020年)
  • 舟久保藍「シリーズ藩物語 刈谷藩」(現代書館 2016年)
  • 西ヶ谷恭弘「国別 城郭・陣屋・要害・台場事典」(東京堂出版 2002年)
  • 刈谷市「刈谷城跡確認調査概要報告書」(2015年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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