お江戸の街金 零細高利貸しが果たした役割
- 2025/02/12

『ヴェニスの商人』のシャイロックといい、近頃の街金といい、金貸しは好かれないものです。しかし彼らは必要な職業でもありました。庶民の暮らしを底辺で支えたお江戸の金貸しはどのようなものだったのでしょうか?
金貸しもピンキリ
江戸の街には実にさまざまの金貸しがいました。大名貸しを行う大商人から、どう見たって貸すより借りる方かと思えるような零細業者まで…。小金を貯め込んだ商人は勿論、お寺や神社・直参旗本のお武家様や裏長屋に住む職人、その日暮らしの棒手振りの女房などが、せっせと手元の金を回しては稼ごうとします。※ 大名貸し(だいみょうがし)
江戸時代、町人で大名を相手に金を貸したこと。また、その業やそれをする人。
(出典:コトバンク)
江戸っ子が「しょせん、お江戸は食い詰め者の吹き溜まり」などと言いながら、肩肘を張って生きられたのも、これら中小の金貸しが生活の底を支えていたからです。彼らが活発に活動を始めるのは貨幣経済・商品経済が社会の隅々にまで行き渡った18世紀半ばからです。商売としての質屋の文字は、元和8年(1622)京都市中に出された法令を初見とします。
商売としては鎌倉時代・室町時代から存在したようですが、それまでは主に土地を担保に金を貸していました。彼らが繁栄できたのは朝廷や幕府・有力寺社と結び、多額の役銭を納める代わりにその庇護を受けて、金を返せない相手には打ちこわしなど手酷い手段を使えたからです。
やがて品物まで質草になると、土地を持たない者も利用するようになり、金貸し業は社会に広がって行き来ます。現在では貸金業者と質屋は管轄も金融庁と警察庁と別組織であり、従うべき法律も違います。しかし、江戸のころは両者はさほどはっきり区別されていませんでした。
座頭金
江戸時代に幕藩体制が確立し、幕府は田畑と人間の売買や質入れを禁止したので、不動産を質入れするときの条件が厳しくなります。もっともこれは表向きで、実際の農村では田畑や人間、特に若い娘は重要な商品でした。そして衣料や・飾り物・生活道具などを質草に取る小口金融業者、いわゆる質屋が進出してきます。そんな小さな市井の金貸しの中に “座頭金” と呼ばれるものがあります。
※ 座頭(ざとう)
江戸時代、僧体の盲人で、琵琶・三味線などを弾いたり、語り物を語ったり、また、あんま・はりなどを業とした者の総称。
(出典:コトバンク)
古くから目の見えない人間の生活を保障する目的で、平家琵琶などの管弦や按摩・鍼灸を独占的生業として習得させる “当道(とうどう)” という制度がありました。
朝廷ではこの制度を公家の久我(こが)家に管理させ、検校・別当・勾当・座頭・衆分などの位階を設けて経済的特典も与えます。江戸幕府もこれを踏襲し、その特典の1つとして、自分の持ち金を “官金(かんきん)” の名目で他人に貸し付けるのを許可します。“官金” とは検校・別当の位を得るのに官に上納する金の事ですが、それを一時的に融通しても良いとの趣旨です。
当道は、元々が盲人保護の制度ですから、官金の貸付にも利率などの条件にたいした制限は設けませんでした。これが座頭金です。通常金の貸し借りのトラブルは当事者同士の話し合いとされましたが、座頭金が焦げ付くと集団取り立てが行われます。これは滞納した者の門前に大勢の座頭が集まってののしり、わめきたてるのです。
追い立てようとすれば一層大勢が集まり、わめきたてるので外聞の悪い事この上ありません。現在の街金の「カネ返せーーー」ですね。役人に何とかしてくれるように訴えても盲人保護が建前ですから動いてはくれず、「借りたものを返さない方が悪い」と取り合ってくれません。
芝居などでよく、悪徳検校が出てくるのはこのような事情を背景にしています。この被害にあったのが旗本など外聞を気にする武家だったとか。
後家養育金と浪人金
“後家養育金”も、夫に死に別れた後家の救済のために、高利での貸金を認めたものです。“浪人金” も同様で、日々の暮らしに喘ぐ浪人に貸金業を認めたものです。しかし座頭も後家も浪人も、他に金を稼ぐ手段を持ち、そこで得た金を高利で貸し付けたのではありません。いずれもなけなしの生活費の一部を転がしたに過ぎず、そこで得た利益もすぐに生活費に消えて行きました。
儲けた者もいたでしょうが、倉を立てたとの話も聞きません。
烏金・百一文・日済
座頭・後家・浪人などは貸し手の名でよばれる高利貸しですが、貸型の特徴で呼ばれる高利貸しもありました。“烏金(からすがね)”は、暁烏(= 夜明けに鳴くカラス。 あけがらす)が「カァ」と啼くころに金を借り、暮れの「カァ」あるいは翌朝の「カァ」までに返すからこの名前が付きました。
ほんとうに切羽詰まった借り手事情ですが、当然のごとく高利で、文化13年(1816)の『世事見聞録』には、次のように書かれています。
「わずか1日の融通にひと月に当たる高利を取る也」
“百一文”は、朝に百文を借り、夕方には百一文を返す、というものです。わずか一文と思うかもしれませんが、年利にすれば360%です。
これらの貸し金の借り手は、野菜や魚・日用品などを売り歩く零細な小商人たちです。彼らは店を構える金もなく、天秤棒や屋台を担いで街を流して回ります。
毎朝、商品を仕入れる元手として数百文を借り、夕方に売り上げの中から数文の利子をつけて返します。いちいち証文も交わさず、長屋の家主の口添えがあれば借りることが出来ました。長屋住まいの棒手振りや日雇い稼ぎの多い江戸においては便利な小口金融ですが、これではいつまで経ってもその日暮らしから抜けられません。
“日済(ひなし)”は、最終期限を決めておいて毎日均等割りで返していく方法です。
例えば、ある商人が1両を2ヶ月間借りるとして、1両を銭に換算すれば6貫文だった場合、毎日100文づつ返していきます。利子は先引きなので1両の証文を書いても2朱ぐらいは引かれますから、実際に手に出来るのは3歩2朱ほどです。これの実質年利は85%以上です。
“月済”も同じ仕組みで、年利に換算すれば、日済は烏金や百一文よりもマシに思えますが、毎日返済に追われる貸し金に変わりありません。
これらは無担保・無保証で、誰かが簡単な身元保証をしてくれれば1日の商売の元手ぐらいは借りられる便利な金融ではありました。
損料貸し
“損料貸し”は、着物や鍋釜などその日に使う世帯道具を持ち込んでわずかな金を借りるものです。金貸しよりも質屋と言った方が良いでしょう。その日暮らしの庶民の中には着物や布団・蚊帳などを便利屋から1日いくらかの損料を払って借り、これを質屋に持ち込んで借金する者もいました。何とも危ないやり方ですが、これを見越して損料貸しと金貸しを同時に営み、庶民の懐を吸い尽くす金貸しも生まれます。
おわりに
朝に借りて夕暮れには返すという、まさにその日暮らし。江戸っ子は宵越しの金は持たないのではなく、持てなかったのです。【主な参考文献】
- 北原進『江戸の高利貸』(吉川弘文館、2008年)
- 西尾幹二/責任編集『地球日本史2』(産経新聞ニュースサービス、1998年)
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