江戸時代の防火対策・災害復興のあれこれ いつの時代も変わらない「肝要」な事とは?
- 2024/12/10
江戸時代には、初期の戦災復興だけでなく、天候不順による冷害・干ばつ・地震・火山噴火・水害・火事・飢饉により引き起こされる疫病(牛馬も含む)・虫害などが全国各藩で起こります。江戸時代中期・後期には、それまでに構築されてきた防災・復旧のシステムの中に、将軍や藩主からの「御救い」や富裕超人による「施行」といった治者と民衆との情緒的な結びつき、そして人々の心を救う「心のケア」も重要になっていきました。
本記事では江戸時代における、江戸の防火対策と、藤堂藩の災害復興の事例をみていきます。
将軍のお膝元・江戸
江戸では火事が日常茶飯事だったという江戸時代。安政2年(1855)10月2日、安政の大地震が発生した際には、幕府の「御救いマニュアル」に沿って、各町にお触れが出されました。それにより、短時間で大規模にお救い小屋が建てられます。現代でいうところの仮説住宅や避難所ですね。 やがて炊き出しが始まり、被災した町人は各町より長持ちなどを持って決められた場所に向かい、包装された握り飯・梅干し・たくあんを持ち帰りました。住んでいた長屋が破損して住めなくなった場合、お救い小屋でしばらく寝起きし、規定の一日三合の握り飯を確保し、日々稼ぎに励んでやがて自立していきました。
江戸は働き口も多く、長屋の復旧も比較的早いので、色々なケースがあったとは思いますが、なんとかなることが多かったようです。幕府からの御救いは、貧しい身分の者や町人が中心でした。一般の町人は、付近に大名や旗本の屋敷、寺社や大商人の大店があった場合、そこからの施行も期待できましたし、施行主体への報奨金制度などで幕府も推奨していました。
江戸の防火対策
定火消し(じょうびけし)
火消し(江戸時代の消防組織)は、3代徳川家光の頃の寛永6年(1629)、火災のたびに大名を招集した「奉書火消(ほうしょびけし)」が初めて制度化されました。 寛永18年(1641)の京橋桶町から発生した火事では、大きな被害を出してしまったため、幕府は新たに寛永20年(1643)には16の大名家からなる「大名火消」を組織。しかしそれも十分ではなく、明暦3年(1657)には江戸の歴史上最悪の被害となった明暦の大火が起きてしまいます。
こうして幕府は火事に強い都市づくりを目指すことに…。その一環として、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)に新たにつくられた消防組織が「定火消し」です。
常勤の組織として旗本が指揮し、各旗本の下に与力(6名)、同心(30名)、中間・人足(100名以上)が付属されて、市谷左内坂、四谷門外、飯田町、半蔵門外、赤坂溜池など、江戸城の周囲に配置されました。
なお、『東海道五十三次』で知られる浮世絵師・初代歌川広重は、火消し同心の子として生まれ、『江戸乃華』という作品では、定火消の生活や活躍をリアルに描いています。
蠣殻屋根
明和9年(1772)2月29日の目黒行人坂の大火は、特に規模の大きい火災で、江戸の三大大火の一つに数えられています。『目黒行人坂火災絵巻』には、火事の凄まじさが描かれているとともに、通りの商店の屋根に黒い大きなナメクジのような、瓦ではない屋根材が描かれています。これは、牡蠣の殻ではないかと言われています。
享保12年(1727)、小石川などの外堀の外側のエリアに住む旗本・御家人に対して出された指示の史料には、
「瓦屋根に難成所々は、念入候蠣殻屋根ニ成共申付、火除ニ成候様當秋中可致候」
とあります。
防火対策という観点から、最もふさわしいのは瓦ですが、費用の面で困難な場合は、藁・杉皮などで葺いた屋根ではなく、念の為に蠣殻にしておくように、という内容です。この幕府の指示は、18世紀の終わりには見られなくなりました。安価で軽い瓦が開発され、普及したからです。
江戸時代後期の藤堂藩の災害復興(安政伊賀大地震)
江戸安政の大地震の前年、嘉永7年(1854)6月15日午前2時ごろに、伊賀地域をマグニチュード7.25(阪神・淡路大震災と同程度の規模)の大地震が襲いました。大地震の被害状況や、藤堂藩の領民に対する救済対策・領民の思いが、伊賀国阿拝郡羽根村(三重県伊賀市)の庄屋・中村久右衛門が記した『大地震自他見聞書』に記されているので以下、みてみましょう。
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《6月15日》
- 夜明けには本丸の広大な空き地に仮小屋(大身武士用)が建設される。
- 町中に火除け地として用意されていた空き地に仮小屋(町方用)を設置。
- 屋敷の近くや空き地にも小屋掛けが見られるようになった。
- 被災した町人達には、雨風をしのぐために、藩から竹や渋紙が貸し出された。玄米の炊き出し、合わせて味噌も配給された。火の用心や盗難防止のため拍子木が一晩中鳴り響いた。
《6月16日》
- 町中の倒家・怪我人などに対して、御救米が一人当たり玄米一日二合下行された。
- 江戸藩邸に、被害の詳細をまとめた冊子を届けるため、使者が派遣される。
《6月17日》
- 郷方にも、御救米が1人玄米一日二合ずつ下行された。被害を受けた家に対して郷方・町方ともに100俵が下される。
- 作事奉行から津の藩庁に対して、棟梁2人・大工50人・人夫150人の派遣を要請する。
- 国内の主な寺社に、地震が鎮まるように藩から祈願する。
《6月18日》
- 医師不足の村に対して医師の派遣を命じ、その謝礼は藩が支払った。
とても手厚い対応であったことがわかりますね。この大地震からおよそ1ヶ月後、7月20日には、藩が藩士のみならず領民を含めた全被災者に対する鎮魂のために施餓鬼(せがき)の儀式を行いました。費用は全て藩が工面しました。
その後も、藩から町方・郷方に対して米や金子が追加給与されており、諸職人や日雇いの働き先が示されています。藤堂藩が下行した金子は現代に換算すると33億円以上と推測されます。
安政伊賀地震において、家臣団はもとより、町方・郷方への手厚い復興策、大施餓鬼や一周忌法要という心のケアも含めて、全て藤堂藩が主導しました。江戸後期の藤堂藩の財政は非常に厳しかったようですが、それにもかかわらず、大震災や疫病に対して、藩主が率先して救済に努めていました。
中村久右衛門の『大地震自他見聞録』には、
「御上様之御仁愛ありがたく、筆紙に尽くしがたし」
と記されています。
終わりに
防災・災害復興の要は、いつの時代も「助け合い」「ネットワーク」です。地震・火事・疫病などが複合して大災害となるのは今も昔も変わりません。また、異常気象による水害も近年増えています。長い歴史の中で、人々は、自然災害や戦災から幾度も立ち上がりながら、人生を生き抜いてきました。人と人とが支え合えば、必ず心は救われます。日頃の備えを工夫し、一人一人ができることを、現代を生きる私たちも取り組んでいきたいですね。
【主な参考文献】
- 藤田達生『災害とたたかう大名たち』(角川選書、2021年)
- 追川吉生『江戸のなりたち 江戸のライフライン』(新泉社、2008年)
- 岩本馨『明暦の大火:「都市改造」という神話』(吉川弘文館、2021年)
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