大河ドラマ「光る君へ」 度重なる内裏の焼亡 三条天皇は藤原道長になぜ怒りを見せたのか?

 大河ドラマ「光る君へ」第45回「はばたき」。

 平安時代、内裏は度々、焼失しています。一条天皇の御代の寛弘2年(1005)11月にも内裏は焼亡しています。その事もあって、一条天皇は、東三条第(藤原道長の父・兼家の主邸)の「内裏」に身を寄せています。いわゆる「里内裏」(平安宮内裏以外の邸宅を天皇の皇居として用いた)です。一条天皇に代わり即位した三条天皇の御代(長和3年=1014)2月の夜にも内裏は焼失。その時の火災では、三条天皇は枇杷殿(藤原氏の邸宅で、道長の次女で三条帝の中宮・藤原妍子の里邸として整備)を里内裏としていました。

 しかし、三条天皇、藤原氏の邸宅を里内裏とする事が不本意だったようで、一刻も早く、新造内裏に遷幸したいと考えていたようです。三条天皇は新造内裏への遷幸を急げと道長に命じますが、道長は何も回答せず、退出することもあったとのこと。枇杷殿にいることを快く思っていない三条天皇に道長は不満を持っていたと言えるでしょう。

 当時、三条天皇は眼病を患っていましたが、その道長の態度を見て「自らの病状を見て、答えなかったのである」と不信感を募らせています。道長が要求していた譲位のことも考えないとの意向も示されており、三条天皇は道長の態度に怒りを見せているのです。

 三条天皇は、新造内裏に還御しなければ譲位を行う積もりはないとの意向も示しています。長和4年(1015)9月、念願の新造内裏への遷幸がついに行われました。ところが、その新造内裏が同年11月17日の夜、焼亡してしまうのです。

 三条天皇の無念はどれほどのものだったでしょう。眼病に犯され、苦しい状況の天皇。それに追い打ちをかけるような新造内裏の焼亡。そうした中において、道長は火災の翌日に天皇に譲位を迫ったのでした。日記『小右記』の記主・藤原実資も「火事の間、大事を奏せらるは如何、憤懣に耐えざるか」と道長の言動に疑問を呈し、天皇の胸中を慮っています。


【主要参考文献】

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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