「士族の商法」に込められた皮肉…明治維新で“社会の底”に落ちた侍たちの悲劇
- 2025/12/10
明治維新によって新しい時代を迎えた日本。しかし、世の中が一変すると、時代の波にうまく乗って成功する者が出る一方で、その波に取り残され、置いて行かれる者も現れます。明治維新で最も取り残された階級、それが「士族」です。彼らはそれまで「侍」として社会の上層部に位置していましたが、激変する明治の世に突然放り出されることとなりました。
諸務変革令で生まれた「士族」という身分
「士族」という新しい身分が誕生したのは、明治2年(1869)6月25日に明治政府から出された「諸務変革指令」によるものです。この指令により、諸藩の領主一門・家老から平士に至るまでの大名家臣団が、身分的に一律化され、「士族」としてまとめられました。この士族には、公家や寺院の下層階級、由緒ある郷士なども組み入れられましたが、その大多数を占めたのは、版籍奉還(藩主が藩領と領民を天皇に返上すること)の時点で、藩の統治身分に属し、藩から家禄(給与)を受け取っていた旧藩士たちです。また、将軍家に直属していた幕臣や旗本も、徳川家処分後に静岡藩士となっていたため、この士族の対象となりました。
彼らの運命は、明治4年(1871)の廃藩置県で一旦は保証された家禄を、明治9年(1876)の秩禄処分によって失うことで一変します。家禄は金禄公債という一時金と引き換えに打ち切られ、公卿や旧藩主たちのために用意された華族身分のような特別待遇もなく、まさに維新の混乱期に社会へと放り出される形となりました。
「士族」という名前こそ、庶民が属する「平民」とは異なりましたが、実際には何らの特別待遇や特権もなく、平民と同列に扱われることになったのは、旧武士たちの誇りを深く傷つけることとなりました。長年、社会の指導層であった彼らにとって、この平民同然の扱いは到底我慢できるものではなかったでしょう。
武士の誇りを奪われ…
明治政府は、武士階級の根幹に関わる制度を次々と打ち出しました。明治6年(1873)に陸軍省から発布された徴兵令は、身分や家格にとらわれず、すべての国民を平等に扱う国民皆兵を目指すものであり、「いざとなれば町民・農民を守る」という武士の存在意義と誇りを否定するものでした。さらに追い打ちをかけたのが、明治9年(1876)に布告された廃刀令です。武士の魂とも言える刀を公に携行することを禁じられたことは、武士階級の終焉を決定づけました。
また、一口に藩士と言っても、藩の中には家格の序列、知行(給与)の多寡、家老職から畑仕事をこなす郷士、そして主人を持たない浪人まで、身分や経済状況には複雑な区分がありましたが、新しい制度ではこれらをすべて「士族」として十把一絡げにまとめてしまいます。これは、代々高い地位にあった上級武士たちの心を深く傷つけることにも繋がりました。
明治政府にとって、旧藩や武士身分に対する彼らの懐旧の念こそが、最も壊すべきものでした。将軍家から朝廷へと権力移譲が行われ、新生日本を目指している中で、いつまでも幕藩体制を懐かしみ、その上下関係に執着し、なまじ政治や軍事に関心を持つ武士階級は、新体制にとって非常に厄介な存在だったのです。
政府による救済策(授産政策)の試み
しかし、政府も士族たちをただ冷たく突き放したわけではありません。明治5年(1872)時点での全国の士族人口は約128万人あまり。この多くの不満分子を抱え込んでいては、社会不安の元になることは明白でした。そこで、内務卿・大久保利通が中心となり、官吏や教員・将校・警察官などになれなかったおよそ7割の士族に対し、新たな生業を与える「授産政策」が取られます。その一つが、畑を耕して生計を立てさせる「帰農」でした。「侍の元々の姿は農民だったのだから、帰農させるのが最も自然な姿だ」という考えに基づいています。しかし、作物の取れる良い農地はすでに農民が所有しており、士族のために用意されたのは主に荒れ地の開墾でした。これは、さほど資金もかからず、士族の収入を確保しつつ耕地の増加も図れる「良い方策」として、廃藩前から積極的に奨励されていました。
とはいえ、荒れ地開墾は簡単ではありませんでした。佐倉藩士族の同協社や鶴岡藩士の松ヶ岡開墾場などの成功例は、旧藩主の資金援助や有能で熱意ある地方官がいたからこその例外でした。大久保利通は、明治天皇の地方巡行の先導として奥羽地方を視察した際に着想します。
「このあたりには未開墾の土地が随分ある。ここへ士族たちを送り込もう」
そして、帰京するとすぐに奥羽地方に政府直轄の開墾場を設け、自立困難な士族を入植させ、資金の貸し付けと政府の強い監督保護の下に置くという計画を立てました。つまり、きちんとバックアップもするが、こちらの言う事を聞いてもらうぞってわけです。
明治7年(1874)、この流れの中で、北方警備を兼ねた北海道屯田兵策が、開拓次官の黒田清隆によって建議されます。東北地方の士族を中心に、翌年(1875)から順次移住が開始されることとなりました。
なかなか上手く行かぬ士族対策
このように政府も様々な手を尽くしましたが、士族対策はなかなかうまく行きません。明治12年(1879)、元老院議官の佐々木高行は、宮内省御用掛として東北各県の民情を視察し、旧秋田藩士族の窮状を「困苦凍飢ニ迫ル」(貧困と寒さと飢えに苦しんでいる)と書き残しています。一方、士族を単なる邪魔者として扱うのではなく、同程度の意識と知識・道義を持った集団として扱えば、国のために生かせるのではないか、という意見も法制局長官の井上毅を中心に存在しました。
しかし、いずれの策も決定的な解決策とならないうちに、士族の不満はついに暴発します。明治9年(1876)には、熊本で神風連の乱が発生。太田黒伴雄ら熊本の不平士族約200人が熊本鎮台を襲撃します。これはすぐに鎮圧されましたが、この後、10月27日には秋月、28日には萩と反乱は広がり、政府は軍艦まで動員した総攻撃で、ようやく11月6日に鎮圧することができました。
そして、明治10年(1877)2月15日には、中央政府から離反した西郷隆盛を盟主として、鹿児島私学校の生徒らを中心とした士族が挙兵し、日本史上最大の内戦となる西南戦争が勃発します。物量・人員・装備で勝る中央政府軍に抗すべくもなく、9月24日の西郷の自刃をもって戦いは終わりますが、これら一連の騒動により、士族に対する世間の目も厳しくなって行きました。結果として、士族に対する授産事業も徐々に終了へと向かい、不平不満を抱えながらも士族たちは社会に溶け込む、あるいは埋没していかざるを得なくなりました。
士族という名称が正式に廃止となるのは、第二次世界大戦後の昭和22年(1947)の戸籍法改正を待たねばなりません。
おわりに
家禄を失い、生きていくために不慣れな様々な商売に手を出した挙句、失敗して家産を失う。士族の中には、このような悲惨な境遇に落ちた者も少なくありませんでした。そして、それまで威張り散らしていた武士が零落していく様子を、庶民はどこか心地よさげに見ていた節があり、ここから「士族の商法」という言葉が生まれます。これは、武士が商売の常識を知らず、採算を考えず、やたらと体裁にこだわるために失敗するという意味で、落語のネタにもされました。「士族の汁粉屋」「士族風呂」「士族の車」などの話が高座にかかり、庶民の笑いを誘ったのです。
【主な参考文献】
- 御厨 貴/監修『ビジュアル 明治クロニクル』(世界文化社、2012年)
- 鳥越一朗『おもしろ文明開化百一話』(ユニプラン、2017年)
- 落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、2001年)
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この記事を書いた人
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