ガダルカナル島の戦い…飛行場を取り戻せ!一木支隊の奮戦と玉砕
- 2025/08/01

昭和17年(1942)8月のガダルカナル島を巡る日米の攻防戦。それに先立つミッドウェー海戦と共に、太平洋戦争の攻守の転換点となったと言われる戦いです。米軍の上陸を許したガダルカナル島の日本軍支援のために派遣されたのが一木支隊(いちきしたい)です。
飛行場を建設するも、米軍の上陸を許す
昭和17年(1942)6月5日から7日にかけての中部太平洋ミッドウェー海戦の大敗で、米軍に制空権と制海権を奪われた日本軍。それを取り戻そうとしたのでしょうか。南太平洋の要衝ガダルカナル島に飛行場の建設を始めます。同年7月6日、ガダルカナル島沖の日本軍輸送船3隻から、工兵や物資を満載した小舟が降ろされ、島に上陸します。海軍陸戦隊の工兵3000人は、すぐにジャングルの木を切り倒し、ツルハシを振るい、モッコを担ぎ、と1ヶ月間の昼夜兼行の突貫工事で、8月5日には長さ800m・幅60mの滑走路を作り上げてしまいました。しかし、ほっと一息ついたのも束の間、その時には米軍はすぐそばまで迫っていました。

8月7日午前4時、オーストラリア軍の支援を受けた米軍海兵隊第1海兵師団1万900人が、島の北岸中央付近のルンガ岬に上陸します。そこは完成したばかりの飛行場のすぐそばでした。日本軍は第11・第13設営隊が陣を張っていましたが、防空壕があるばかりで迎え撃つ設備もなく、圧倒的な火器と兵力の前にせっかく作った飛行場は、あっさりと敵に奪われてしまいます。
海軍と陸軍の連携不足
大本営陸軍部内にガダルカナル島からの陸戦部隊の応援要請が届いた時、海軍がガダルカナル島に飛行場を建設したのを知っている者は1人もいなかったそうです。日本帝国を支える両輪でありながら海軍と陸軍は何かにつけ張り合う間柄で、とても連携は上手く行っているとは言えませんでした。ともあれ飛行場を取られたのは一大事、応援を送ることにした大本営は、素早く動ける少数精鋭部隊が良いだろうと「一木支隊」に白羽の矢を立てます。
一木支隊とは、北海道旭川第二十八連隊から選ばれた歩兵部隊で、一木清直(いちき きよなお)大佐が率いています。支隊は昭和6年(1931)の満州事変や、昭和14年(1939)のノモンハン事件などに出動し、歴戦の精鋭部隊として有名でした。

一木大佐は陸軍歩兵学校教官を数年務めており、実戦指揮に優れた軍人でしたが、帝国陸軍の伝統的戦法、銃剣による少数精鋭の夜襲が一番効果的と信じていました。
8月18日、米軍に制空権を取られている中、一木大佐は先遣隊員900人を率いて何とかガダルカナル島北岸のタイボ岬に上陸します。ここは目的の飛行場から20km離れた場所です。1万900人の米軍に対していかにも少人数ですが、この時に大本営は敵の人数を2000人と勘違いしていたようなのです。
この後、後続部隊や川口支隊も派遣される予定でしたが、一木大佐は戦機を逸しないように命令されており、敵人数の読み違いもあって、この人数だけで飛行場奪還に向かうことになるのです。

一木支隊の戦い
上陸翌日の19日午後2時過ぎ、本体に先駆けた偵察隊34人は待ち伏せしていた敵兵に殲滅されてしまいますが、午後6時に本隊は一挙に飛行場近くまで進出しようとします。途中、敵襲もありましたが、午後11時ごろには飛行場から2kmほど離れたイル川河口に辿り着きました。一木大佐はそこに川を歩いて渡るのに丁度良い幅50mの中州を発見します。翌20日未明、突撃命令と共に中州に向かった一木支隊は、敵軍の猛烈な銃火砲を浴びます。アメリカ軍は機関銃・自動小銃・迫撃砲・手榴弾と、あらゆる兵器を動員して撃ちまくってきました。日本兵は鉄条網を潜り抜けて突入する者もいましたが、大部分は中州を超えることは出来ず、その前後で折り重なって倒れてしまいます。一木大佐は大砲小隊や機関銃中隊を戦闘に加えて丸1日揉み合い、戦況の好転を図りますが、圧倒的な敵の火器の前にはどうにもなりませんでした。
米軍は乗っ取った飛行場にすでにドーントレスやワイルドキャットなど、31機を配備しており、飛び立ったこれらの航空機が一木支隊に機銃放射を浴びせます。21日午後になると、戦車6両も戦いに加わり、一木支隊の背後を踏みにじりました。
この光景について、米軍第一海兵師団長は次のように証言しています。
「戦車の後部はまるで肉挽き器のようだった」
一木支隊将兵は果敢に奮戦しますが、米軍の圧倒的な物量・戦力を前にしてどうにもならずほぼ壊滅状態となりました。
午後3時ごろ、「これまでか」と覚悟を決めた一木大佐は、軍旗が敵の手に渡らぬよう焼き捨て、自決して果てました。部下の将兵の大部分も最後の突撃を果たして壮烈な戦死を遂げます。
この後、ガダルカナル島では補給路を断たれた日本兵を、「ガ島ではない飢島だ」と言われる惨状が襲います。ガダルカナル島に投入された日本軍将兵は3万2000人、そのうち戦死は1万2000人、飢え死にや戦病死は1万7500人、行方不明者は2500人にのぼります。対してアメリカ軍の餓死者は1人もいなかったのです。
おわりに
このガダルカナル島での米軍の勝利は、攻撃の中心勢力となって活動した米軍海兵隊に大きな自信を与えます。今でこそ米軍中最強を謳われる海兵隊ですが、発足当時はお荷物扱いで海兵隊不要論も何度も繰りかえされました。ガダルカナル島奪取で大きな役割を果たした海兵隊、アメリカ軍の戦史にはこう書かれています。From that time on, United States Marine Corps were invincible
(この時以来アメリカ海兵隊は、向かうところ敵なしだ)
【主な参考文献】
- NHKスペシャル取材班『ガダルカナル悲劇の指揮官』(NHK出版、2020年)
- 吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』(中央公論新社、2017年)
- 戸部良一、寺本義也ほか『失敗の本質』(中央公論新社、2000年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄