2mの巨漢で通算勝率96%!江戸時代の最強力士「雷電爲右エ門」の伝説
- 2026/06/17
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老若男女に根強い人気を誇る日本の国技・相撲。現代ではテレビ中継で気軽に見られますが、江戸時代は観客が土俵を囲み、力士たちに生の声援を浴びせました。
とりわけ注目を集めたのが今回の主役、最強の力士の呼び声高い雷電爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん)です。一体どんな人物なんでしょうか?
とりわけ注目を集めたのが今回の主役、最強の力士の呼び声高い雷電爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん)です。一体どんな人物なんでしょうか?
信濃の農家に誕生 地元で評判の巨体と怪力の持ち主
雷電爲右エ門は江戸時代に実在した力士。出身は信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市大石)で、本名は関太郎吉(せきたろうきち)。通称信州雷電、得意技は寄りと突っ張り。生涯を通じて254勝10敗2分の戦績を誇った、伝説の相撲取りです。太郎吉の父・半右衛門は小柄で貧相な百姓でした。それを憂えた母が田中宿の仁王尊に詣で、「大きな男の子をお授けください」と願ったところ、産まれてきたのが太郎吉だったのです。
太郎吉は家の手伝いをよくする孝行息子として知られ、庭で水浴びしている母親を突然の雷から守るべく、風呂桶ごと土間へ運んだ逸話が残っています。碓氷峠で大名行列に遭遇した際は、すれ違うのが困難な道幅と見るや、咄嗟に馬を担いで避けたとか。なかなかに真偽が怪しい話ですが、幼い頃から体格と膂力に優れ、少年期に6尺(180センチ)をこえていたのは事実です。
人生の転機は13歳の時。城下町へ出稼ぎに行った太郎吉は、奉公先の精米所主人・柳田藤助を介し、長瀬村の庄屋・上原源吾右衛門に見初められ、相撲取りの修行を始めることになります。上原道場に弟子入りした太郎吉は、毎日の厳しい稽古を乗り越えて、メキメキ頭角を現していきました。
天明4年(1784)秋、太郎吉は上京します。江戸を訪れた目的は浦風林右エ門のスカウトを受け、浦風部屋へ入る為でした。角界の第一人者・谷風梶之助に師事した太郎吉は、力士の素質を見事開花させ、天明8年(1788)に「雷電」の四股名を授かります。同時に松江藩お抱えとなり、両親には金40両が与えられました。
天明の飢饉を乗り越えて土俵入り 雷電伝説の幕開け
当時の力士は全国を巡業し、試合を見せて生計を立てていました。ところが天明の飢饉(1783年)により、一座の興行が取り止めとなった影響で、収入源が絶たれてしまいます。少年が江戸に上がったのは、この状況を打破する為でもありました。雷電の初土俵入りは寛政元年(1789)。以降は破竹の快進撃が続き、雷電爲右エ門の評判が徐々に広まっていきます。彼の活躍時期は江戸における相撲の黄金期とぴったり重なり、大勢の人々を熱狂させました。当時の体格は身長6尺5寸、体重46貫……2メートル170キロの巨漢が取っ組み合うのですから、凄まじい迫力だったでしょうね。
寛政2年(1790)11月に江戸での初土俵入りを果たした雷電は、師匠・谷風を追い上げるように勝利を重ねる一方、大坂・名古屋・京都と連続興行をこなし、その人気を不動のものとします。京都では見物客の重みで桟敷が落下する事故が起き、多数の負傷者が出ました。
私生活の方に触れると、寛政4年(1792)に甘酒茶屋『天狗さま』の看板娘・はんと所帯を持ち、麹町十丁目の長屋に移り住んでいます。
寛政7年(1795)、谷風が流行り風邪に倒れて急死。先輩の遺志を継いで大関に昇進した雷電は、闘病中の松江藩主・松平治郷の見舞いを兼ね、毎日のように御殿で相撲を行いました。この時の5人抜きは今でも語り草になっています。臙脂の地に金糸で稲妻を刺繡した化粧まわしは、雷電が藩主から賜った特別製。いかに彼に目を掛けていたかわかりますね。
引退後は相撲頭取になるも、鐘のせいで江戸払いに?
寛政10年(1798)、奥州巡業中の雷電は長女の訃報にショックを受けます。続けざまに父・半右衛門が他界し、一時は情緒不安定に陥ったものの、どうにか最後までやり抜いて、9勝1休の好成績をおさめました。巡業を終えた雷電は台座で枡、本体で酒樽を模した墓を故郷の村に建て、酒豪の父を弔ったそうです。結論から述べると、雷電は強くなりすぎました。相手力士が大怪我することも少なくなく、事態を重く見た角界は、鉄砲・張り手・閂・鯖折り(サバ折り)の技を禁じた(雷電の四禁)という、のちの講談(エンタメ)で語られるほどの伝説が残っています。
文化5年(1808)にはさらなる逆風が吹き付け、鏡岩濱之助に不覚を取って敗れ、新人の立神盤右エ門に押し出されます。それ以降も黒星はじわじわ増え続け、世間は雷電の老いを痛感しました。当時41歳……加齢による体の衰えには逆らえず、持病の腰痛が悪化したせいで、藩主の参勤交代からも途中離脱せざるを得なくなります。
文化8年(1811)、雷電は現役引退を決意しました。既に44歳。平均寿命が短い江戸では老人と言える年齢です。
その後は松江藩の相撲頭取となり、力士の勧誘や後進育成に力を注ぎながら、火災で焼失した報土寺の再建に当たりました。この時寄進した梵鐘の竜頭には、雷電とライバル・小野川の姿が彫られ、相撲好きな江戸っ子たちを沸かせます。
これに「罰当たりな」と怒った大名の本多忠顕によって、一説には江戸払いに処されたとされる雷電。のちに松江藩へ身を寄せますが、新藩主・松平斉恒は相撲への関心が薄く、お抱え力士の他藩流出を防げませんでした。
化粧まわしを分けた弟子たちの離散を見届け、相撲ブームの終焉を悟ったのでしょうか。老年にさしかかった雷電は相撲頭取を辞して松江藩と縁を切り、妻の実家近くで隠居生活に入ります。とはいえ相撲とは縁が切れず、松江藩が力士を抱え直すことになったと知るや、幕下で燻っていた稲妻雷五郎と鳴滝文右エ門をスカウト。弟子たちの成長を見守りながら文政8年(1825)、59歳で息を引き取りました。
おわりに
以上、史上最強の力士・雷電爲右エ門の解説でした。酒好きな父の為に酒樽の墓石を建てた逸話からは、しきたりよりも人情を重んじる、型破りな人柄が伝わってきますね。お祭り好きな江戸っ子たちが、応援したくなる気持ちがよくわかります。

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