サイパン「バンザイクリフ」の悲劇…なぜ彼らは崖から身を投げたのか
- 2025/08/06

しかし、サイパン島は太平洋戦争中、島を守る日本軍がアメリカ軍の攻撃の前に玉砕、追い詰められた日本人1万人余りが崖から飛び降り自殺をした悲劇の島でした。
日本の委任統治領
サイパン島は大正9年(1920)から昭和20年(1945)までの25年間、国際連盟より委任された日本の統治領となっていました。北緯15度面積115平方キロメートル、小豆島より少し大きい程度の小さな島です。サイパン島をはじめ、ヤップ・トラック・パラオなど、南洋群島の統治を始めた日本は、島々に法院・医局・郵便局・気象台・各種学校を設置します。

国際連盟は委任統治に当たり、「統治領内の住民の福利厚生に努め、資源・経済の開発に努める事」などの条件を付けていますが、経済開発で大成功したのがマリアナ諸島のサイパン・テニアン・ロタです。この三島を本拠地とする、南洋の気候を生かしたサトウキビ栽培による南洋興発KKの精糖業は、台湾精糖に次いで東洋第二の生産量を誇りました。“海の満鉄”とも呼ばれた南洋興発の創業者・松江春次(まつえはるじ)は、“砂糖王(シュガーキング)”と呼ばれます。

また、南洋興発は牛や豚を中心とした牧畜業、サトイモ・キャッサバ・バナナなどを栽培する農場も経営、これら産業の従業員として、多くの日本人が内地から渡って来ます。昭和19年(1944)初めには、サイパン島に軍人・民間人合わせて2万3千人の日本人が暮らしており、先住民のチャモロ族やカナカ族は4千人ほどでしたから、もうほとんど日本人の島でした。
サイパン島に狙いを定めるアメリカ軍
太平洋戦争の決着をつけるため、日本本土への爆撃を考えていたアメリカは、昭和19年(1944)6月に、中華民国四川省の成都からB29爆撃機を出撃させます。このころ、中国内陸部以外はまだ日本軍が押さえていました。しかし成都からの出撃では航続距離の問題で思うような成果を上げられず、もっと日本に近い拠点基地が欲しいと探し始めたアメリカが目をつけたのは、サイパン・テニアン等の太平洋上に散らばる島々です。

ボーイング社が開発したB29爆撃機は、高度1万mを爆弾を満載して攻撃地に向かい、帰還できる距離が5230km、しかも最大時速は574km、と抜群の性能を誇っていました。そしてサイパン島は日本から南へ2400kmと“超空の要塞”と呼ばれたB29なら1回の給油で余裕で往復できるのです。
こうしてニミッツ大将率いるハワイのアメリカ太平洋艦隊は、マリアナ諸島目指して作戦を開始。物量に物を言わせ、ギルバート諸島・マーシャル諸島を手に入れたアメリカ軍は、ここを拠点に大艦隊を集結。トラック諸島からサイパン島に至るまでの島々へ次々に空爆を始めます。
マリアナ諸島に近づくアメリカ軍の戦力は、日本軍の予想をはるかに上回るものでした。サイパン島とテニアン島への上陸部隊は海兵隊が主力の7万1千人、その後の陸軍部隊は歩兵第二十七師団、これに砲兵部隊や戦車部隊も加わります。上陸直前の艦砲射撃のための海軍部隊や空爆の航空部隊も帯同、これら遠征軍を支援するのが7隻の空母を持つ第五艦隊、海から直接陸へ上がれる75mm砲装備の水陸両用車が600両と、その陣容を見ただけでアメリカ軍の本気度がわかります。
失敗した民間人避難
大本営やサイパン島の守備隊は島へのアメリカ軍上陸はまだ当分先の事、あるいは素通りするのではないかとの希望的観測を持っていました。しかし昭和19年(1944)2月23日、午前5時45分から午後1時30分に渡ってサイパン島とテニアン島に米軍機が襲来、空爆を浴びせます。
このころ、アメリカ軍はトラック諸島を爆撃したばかりだったのもあり、「サイパン島にやって来るにしてもまだ先の事だろう」と高を括っていた日本軍は大慌てします。
とりあえず、戦力にならない婦女子と60歳以上の年寄を本土へ退避させようと船を仕立てました。壮年男子は民間人でもいざとなれば戦ってもらわねばなりませんから除外されます。
最初の引き揚げ船には「あめりか丸」と「さんとす丸」が用意されますが、新しく大きくて立派な「あめりか丸」には官公庁の家族が乗り込み、古くて船足も遅い「さんとす丸」には一般民間人が乗せられます。乗船者は両船合わせて1700人で3月2日に出航します。ところが「あめりか丸」は硫黄島沖で米軍潜水艦によって撃沈され、「さんとす丸」の方が無事に日本本土に辿り着きました。「あめりか丸」の生存者は2人の女性だけでした。
この報せが島に伝わると、引き揚げるよりもサイパン島にとどまった方が良いのではないかと考える人が増えます。それでも軍部は引き揚げ希望者を募り、5月31日には「千代丸」が出航します。しかし「千代丸」も本土へ急ぐ途中に撃沈され、生存者は42人でした。
こうなるともう島から引き揚げる方が危険だとなり、それ以降は船は用意されませんでした。6月に入るとアメリカ軍の上陸前の艦砲射撃が始まり、人々は小さな島中を逃げ回り、引き揚げどころではなくなります。

こうして2万人余りの日本人がサイパン島に取り残され、のちの集団自殺の悲劇が生みだされることになります。
追い詰められる日本人
上陸したアメリカ軍の巨大戦力の間に敗れた日本軍は、民間人と共に島の北端マッピ岬を目指しました。岬から5km南のマタンシャに、生き残った3千人の男が最後の突撃を敢行しようと集結します。兵士の他に在郷軍人会の男や警防団員・青年団員など、現役軍人ではない者も多く含まれていました。小銃は10人に一挺程度、棒の先に銃剣やナイフを縛り付けたものを手にして男たちは3組に分かれ、7月7日午前3時ごろ、指揮官を先頭に10km先のガラパンを目指します。これが後に「バンザイ突撃」と呼ばれる行動です。しかしこの捨て身の作戦は、前日捕えられた日本人捕虜からアメリカ軍に漏れていました。
照明弾を打ち上げ、砲火を浴びせて待ち構えるアメリカ軍に向けて、身を庇うこともなく突撃する男たち。この行為はアメリカ軍を恐怖に陥れますが、時間が経つにつれて日本人の死者が増えるばかりで午後にはおびただしい死体を残して戦闘は終わります。
この後、アメリカ軍は残った日本人を駆り出す掃討作戦に入ります。アメリカ兵は洞窟や岩陰を火炎放射器・爆薬・手榴弾を使って潰していきます。そして彼らは日本人捕虜や通訳を使ってマッピ岬に追い詰められた日本人に投降を呼びかけました。
しかしそこでアメリカ兵たちが見たのは恐ろしい光景でした。標高264mのマッピ岬の先端から、次々と海に身を投げる日本人たち。幼い子供を自分の身体に括り付けて崖を蹴る母親、飛び降りるのをためらう者を撃ち殺す日本兵、手榴弾で自決する者も多く、絶え間ない破裂音が鳴り響きます。崖下の砂浜には多くの人間の死体が折り重なって倒れていたといいます。

おわりに
1万人以上と言われる日本人が、海を目掛けて身を投じたバンザイクリフとスーサイドクリフ(自決の崖)、その周辺は現在は平和記念公園として整備されています。アメリカ軍は身を投げようとする人々に降伏を勧め、懸命に説得を試みましたが、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱め(はずかしめ)を受けず」「捕まれば男は惨殺、女は凌辱」と教え込まれていた人々に、他の道はありませんでした。
【主な参考文献】
- 今泉裕美子『地域のなかの軍隊7 サイパン島・テニアン島の「玉砕」』(吉川弘文館、2015年)
- 中日新聞社会部(編集)『烈日サイパン島』(中日新聞社出版部、1995年)
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