インパール作戦 太平洋戦争最悪の作戦…白骨街道を彷徨い歩いた日本兵
- 2025/08/05

太平洋戦争でも最悪の作戦と言われたインパール作戦。第十五軍指揮下3個師団が参加しますが、食料も薬品も弾薬もなく、敗走をつづける日本兵の死体が道の両脇に積み重なります。
これは作戦に参加してインドの町・コヒマを目指した、師団長・佐藤幸徳中将に率いられた第三十一師団指揮下第138連隊第2大隊の話です。彼らは多くの犠牲を出しながら「白骨街道」と名付けられた悲惨な撤退路を辿りました。
これは作戦に参加してインドの町・コヒマを目指した、師団長・佐藤幸徳中将に率いられた第三十一師団指揮下第138連隊第2大隊の話です。彼らは多くの犠牲を出しながら「白骨街道」と名付けられた悲惨な撤退路を辿りました。
作戦開始、チンドウィン河渡河
昭和19年(1944)3月8日、インパール作戦実行部隊・日本軍第十五軍指揮下、第三十三師団がチンドウィン河を渡って対岸の町・カレイワに上陸、インパール作戦が開始されます。第2大隊も3月15日前夜、渡岸に備えてチンドウィン河の東岸の町・コウヤに集結します。深夜暗闇の中「出発用意」「前進」「乗船」の命令が次々に伝わって来ます。兵たちは一度腰を下ろすと1人では立てないほどの重装備でしたが、なんとか無事に乗船、見渡すと十数隻の船が前後して岸を離れて行きます。
河を渡った翌日から道は山道になり、次第に細くなっていきます。機関銃や大砲などの重火器は分解して荷車に積んで運びますが、荷車を牽く牛や馬が通るには2m以上の道幅が必要です。おまけに日本軍は食用として1万頭以上の牛を連れており、これが行軍スピードを送らせました。
もっともこの牛たちはほとんどが行軍の途中で死んでしまったそうですが。部隊は牛や馬を追い立てながら、高いところでは3500m低くて1500mのアラカン山脈の峰伝いを進み、ビルマ(現ミャンマー)とインドの国境にさしかかりました。
目的地コヒマに到達するも
3月29日の午後、部隊はカラソムという国境の町の東20kmの地点に着きます。部隊の攻略目標はインパールの北東の町コヒマです。
そのコヒマの手前にあったのが敵のカラソム陣地で、第2大隊総力を投入した戦闘でたいした抵抗も受けずに敵陣地を手に入れます。
「英米軍は良いものを食っているな…」
ここにはコーンビーフや羊肉・練乳・パイナップルの缶詰に巻き煙草など、300人が1ヶ月暮らせる食料が備蓄されていました。日本兵たちは敵の食料を腹一杯詰め込みましたが、これが最後のまともな食事となりました。
コヒマに近付くにつれ、身近に銃声が響いて敵戦闘機が上空を舞います。作戦開始時ですでに航空戦力は連合軍1000機、一方の日本軍は200機と敵の5分の1に過ぎず、戦闘末期には30数機にまで減ってしまいます。航空戦力の劣勢はそのまま補給路確保の困難につながり、弾薬もなく飢えた日本兵士がジャングルを彷徨う悪夢の戦場の大きな要因になりました。
4月8日午後にコヒマの東側丘陵に到達した第2大隊、2000m級の山々に囲まれた彼方にイギリス軍の陣地が望めます。午後4時に攻撃命令が下り、部隊は初めての本格的な戦闘に入ります。腕を失う者や足を撃ち抜かれる者が続出しました。
12日、「敵の東進阻止のため街道沿いに展開せよ」との命令が出て塹壕戦に入り、その後は2ヶ月近く膠着状態が続きます。援軍も補給もない日本軍の戦力はじりじりと低下して行き、応援兵力を得たイギリス軍が攻勢に転じます。第三十一師団は出発時に携行した3週間分の食料と弾薬のほかは、一粒の米も一発の弾薬も補給を受けていません。
抗命事件
5月の末になると第十五軍参謀たちの間でも、インパール作戦は失敗だったとの声が出始めます。作戦に従事していた山内正文中将の第十五師団、佐藤幸徳中将の第三十一師団、柳田元三中将の第三十三師団の各師団からは、「食糧を送れ、弾薬を送れ」と矢のような電報が届きます。しかし、作戦の総司令官第十五軍・牟田口廉也(むたぐち れんや)中将は「雨季に入るもあくまで敢闘せよ」と言うばかりでした。
業を煮やした佐藤幸徳中将は第十五軍を飛び越え、その上のビルマ方面軍司令官・河辺正三中将に電報を打ち、部隊の窮状を訴えます。この軍の序列を飛び越えての行動に、河辺は何ら具体的な手を打たず、不快感を示すだけでした。
5月25日、佐藤は最後通告とも言うべき電報を打ちます。
「師団は今や糧食絶え、山砲歩兵重火器弾薬も悉く消耗するに至れり。6月1日迄にはコヒマを撤退し、補給を受け得る地点まで移動せんとす」
第十五軍の首脳たちは事態の深刻さに驚きますが、その返事も驚くべきものでした。
「貴師団が補給の困難を理由にコヒマを放棄せんとするは、理解に苦しむところなり。断じて行えば鬼神もこれを避く」
つまり戦闘続行せよとの命令です。これを読んで烈火のごとく怒った佐藤中将は次のように打電し、言葉通り6月1日に独断退却を決めます。
「状況に依りては師団長独断処置する場合あるを承知せられたし」
師団長の独断撤退は日本陸軍始まって以来の事であり、軍の統帥を無視し陸軍組織を根底から揺るがす行為です。この事件は「抗命事件」と呼ばれ、これが元で佐藤中将は更迭されますが、後年次のように語っています。
佐藤:「インパール作戦を開始するにあたり、自分の腹は決まっていた。補給が無ければ帰ってくるまでだ」

白骨街道
コヒマを離れた6月3日には、チンドウィン河を渡った1050人の第2大隊はわずか200人にまで減っていました。ビルマの雨季はすでに始まっており、部隊は連日ジャングルのぬかるんだ道を懸命に撤退していきます。前を行く人間と2m離れると姿が見えず、足音だけを頼りに必死についていきます。光る苔(こけ)を見つけては前の人間の背嚢(はいのう。軍人などが用いるリュック)に貼りつけ、目印にしました。この時彼らが辿った道が、後に「白骨街道」とか「靖国街道」と呼ばれるのです。
その名前の通り、道端には腐敗し膨れ上がった日本兵の死体や、すでに白骨となった遺体が横たわっています。道の両脇から「連れて行ってくれ」と頼む兵士に肩を貸しても、5m進んでは休む、また5m進んでは休む、を繰り返すだけで結局は置いて行くしかありません。死体は死体を呼ぶのか、死臭の漂うジャングルではなぜか寄り添うように白骨が並んでいます。靴を奪われて木に寄りかかっている傷病兵は、まだ生きているようでした。
第2大隊はまだ軍としての秩序を保っていましたが、街道沿いには「鬼」が出没するという噂が伝わって来ました。日本軍の将兵が強盗となって友軍の食料を奪いに来るのです。第2大隊も武装した日本兵に貴重な塩や食料を奪われますが、脱走兵や落伍兵の犯行ではなく、小隊単位での行動ではないかと疑われます。
このころには兵士の自爆も頻繁に見るようになります。自爆はなぜか夕暮れの時間帯が多いのです。行軍を止めて露営地を探していると、どこからか手榴弾の炸裂音が響きます。自爆は手榴弾を腹に抱え込んで行うのですが、駆けつけると腹は破れて大腸・小腸が膝の間に溢れ出し、両太ももの肉は裂け、両手が千切れ飛んだ死体が横たわっていました。
死肉に群がるハゲタカも立っている人間は襲いませんが、膝を突いたら最後、いきなり飛びかかってきて、まず腹を裂いて内臓を貪り食います。あとは何羽もが群がって腕と言わず胴体と言わず肉を喰い切り、死体は一気に白骨になってしまいます。生きながら蛆(うじ)に食われる兵隊もいました。倒れた兵隊の眼や耳・口に蛆がたくさんたかっており、「もう死んだのか」と思って見ると、心臓はまだ動いていたそうです。
この地獄の行軍は70日ほど続きましたが、敵との戦闘で亡くなったのではなく、飢えや傷病で倒れた者がほとんどでした。
おわりに
限られた将兵は佐藤中将の英断のお陰でなんとか日本へ戻れましたが、この作戦では参加兵である日本帝国陸軍兵士とインド国民軍兵士総勢10万人のうち、戦死者3万人、戦傷病者4万人と、実に70%の犠牲を出しました。元はと言えば第十五軍司令官・牟田口廉也中将のごり押しのような作戦でしたが、彼の言い分は次のようなものだったそうです。
牟田口:「この戦の発端となった盧溝橋事件を起こしたのは私です。大東亜戦争は私が結末をつけねばなりません。それにはこの作戦を成功させて国家に対して申し訳が立つようにせねばなりません」
【主な参考文献】
- NHKスペシャル取材班/著『戦慄の記録 インパール』(岩波書店、2018年)
- 半藤一利/編『昭和の名将と愚将』(文藝春秋、2008年)
- NHK取材班/編集『太平洋戦争 日本の敗因4 責任なき戦場 インパール』(KADOKAWA、1995年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄