なぜ石川数正は突如出奔して秀吉に走ったのか?諸説を検証!

 天正13年(1585)、徳川家臣団の重臣・石川数正は小牧長久手の戦いが終結した後、突如として出奔し、敵の豊臣秀吉のもとに向かいました。その理由については、「ゆへありて岡崎を出奔し」とのみ文書に残されており、詳細な理由は謎に包まれています。

 そこで、この記事では数正出奔をめぐる様々な説を紹介し、重臣中の重臣であった彼がなぜ徳川家を去らなければならなかったのかを検証していきたいと思います。

なぜ数正の出奔はこれほど注目されるのか

 さて、本論に入る前に、そもそもなぜ石川数正の出奔がこれほど注目されるのかを考えていきます。

 そもそも戦国時代の武将たちは、かなり頻繁に主君の鞍替えや味方の裏切りを敢行しているのをご存知でしょうか。数正だけが風見鶏という訳ではないのです。

 例えば織田信長も足利義昭を京都から追放していますし、逆に足利義昭も信長包囲網を形成して彼を裏切っています。さらに言ってしまえば、秀吉死後の家康の動きも裏切りに近いものと考えられます。

 それでも数正の出奔が取りざたされるのは、徳川家臣団の特質から違和感ある行動という点、そして出奔理由がハッキリしない点、などが原因でしょう。特に前者に関しては「徳川家臣団は忠犬のようだ」と半ば皮肉られるほど忠義に厚い武将が揃っていたことで知られ、この結束力が徳川の時代をもたらしたという指摘もなされます。

 加えて、石川家は数正の出奔まで三河武士の中でも特に忠義に厚い一族であるとされていました。「安城譜代」と呼ばれる松平家臣最古参の一族であり、歴代の当主とは蜜月の関係を築いています。

 これはもちろん数正自身も例外ではありません。家康を危機に陥れた三河一向一揆のときは、宗教上の理由で本多正信ら重臣にも寝返りが頻発する中、数正は棄教してまで家康に忠誠を誓っています。極めつけは、一揆衆に彼の実父が加担していたという事実もあるのです。

 この一例でも分かるように、数正の忠誠心には相当なものがあると考えられていました。つまり、忠臣として知られた彼が明確な理由もなく唐突に出奔した、という点が人々の想像を喚起した理由なのです。

数正の出奔をめぐり、様々な説が提唱

 数正は出奔の理由を語らなかったため、後世では様々な説が提唱されるようになりました。さらに、状況的に考えても家康を裏切ることに大きなメリットを見出しづらく、その点も人々の考察を盛り上げることになります。

 数正出奔説は、数正の出奔先である豊臣秀吉に関連した説、徳川家内部で不和を抱えていたとする説、の2つに大きく分けられます。そこで、この項ではそうした諸説を一挙に紹介したいと思います。

豊臣秀吉に関連する説

 1つ目は、秀吉の人間性や軍事力に惚れこんで自らの意志で進んで出奔したという説です。実際、数正が出奔前から秀吉の能力を高く評価していたのは事実なようで、可能性としては十分考えられます。

 2つ目は、秀吉による「恩賞攻め」に陥落する形で家康のもとを出奔したという説です。秀吉は恩賞を多く出すだけの十分な財力があった上に、数正を引き抜くことが徳川家にとって痛手であることは理解していたでしょう。これも可能性としては考えられます。

 これらの説は、秀吉または数正がどちらかに惚れこんでいたことを前提にするものです。そこから、もう一つの説として「相思相愛だった」という可能性も指摘できるかもしれません。

 ちなみに数正と秀吉の接点としては、数正が徳川家中で秀吉の取次役という重責を務め、関係改善に尽力してきたことが考えられます。

徳川家内部に関連する説

 3つ目は、秀吉からの人質差し出しの要求を数正は支持したにもかかわらず、家康に受け入れられなかったことを出奔の原因とする説です。

 4つ目は、自身が後見人を務めていた松平信康が切腹を命じられたことに不満を覚えた、という説です。家康との不仲を根拠としたこの説ですが、確かに離反の経緯を考えれば家康との関係が良好であったとは思えません。

 5つ目は、徳川を裏切ったのではなく家康の命で工作員として豊臣家内部に潜伏していた、という説です。これは軍記物や歴史小説で採用されがちな説ですが、特に史料上の根拠は見当たらないため、残念ながら想像の域を出てはいません。

有力な説はどれなのか。

 ここまで数正の出奔に関わる諸説を紹介してきましたが、結局どの説が有力なのでしょうか?

 数正出奔の原因については、秀吉発給の文書や松平家忠という人物が記した『家忠日記』内に「人質差し出しの要求を家康と家臣団が拒否した」という旨が記載されています。これは紹介してきた諸説の3つ目にあたりますが、実は同時代の史料的根拠が確認できる唯一の説でもあります。

 さらに、先行研究においても複数の研究者が「出奔は外交政策をめぐる政争敗北の結果」と断言しています。学術的には決着がつけられているといえそうです。

 こうしたことから、3つ目の説が最有力の説といえます。ただ、有力説に決着がついたところで当然生じる疑問は「なぜ数正の提案が受け入れられなかったのか」という点ではないでしょうか。

小笠原貞慶との関わりが影響?

 数正は家臣団の中でも最古参といえる名門石川家の出身であり、彼自身も出奔に至るまで外交面で手腕を発揮してきました。その数正が総スカンを食らうという状況自体が不自然ですし、そこには何かしらの理由がありそうです。

 この点に関して、先行研究においては出奔の際にともに徳川家を後にした人質待遇である小笠原貞慶の実子との関係が指摘されています。

 そもそも小笠原貞慶は上杉謙信や三好長慶の庇護を受けつつ、各地を転々としていました。その過程でかつて小笠原氏が治めていた旧領の回復を目指して、家康のもとに身を寄せています。

 実は数正は貞慶との取次役を担当していました。しかし、貞慶は天正13年(1585)時点ですでに秀吉と内通していたことが指摘されており、その後は数正同様に徳川家を出奔しています。

 この出奔は従来「数正に感化されての出奔」であると考えられていましたが、近年には「貞慶の内通が発覚したことにより、数正の監督責任が追及された」という考察がなされているのです。

 つまり要約すると、数正は貞慶の内通によって責任を問われ、同時にそれが彼の家中における政治力を失わせることになったということが指摘できます。

 低下した彼の政治力では外交的進言が受け入れられるはずもなく、やむを得ず貞慶の実子を連れて徳川家を後にしたのかもしれません。

 ただ、この説は『三河物語』や『松平記』といった史料に記載がある「数正は天正12年(1584)にはすでに秀吉に篭絡されていた」という内容と矛盾する点があります。これらの史料はそれほど信ぴょう性の高いものではありませんが、この点は注意しなければなりません。

おわりに

 ちなみに、出奔を敢行したのちの数正は秀吉家臣として信濃10万石を与えられ、文禄2年(1593)ごろに亡くなるまで平穏な生涯を送りました。

 ただ、彼の死後の石川家は江戸時代初期に幕府の命によって断絶しています。もしかしたらその背景には数正の出奔があり、豊臣政権が倒れて徳川の世になったことが災いしたのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)
  • 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版、2015年)
  • 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(KADOKAWA、2016年)

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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