井伊直弼のスパイ・村山たか…”奸婦”といわれた女性の生涯

 村山たかは、幕末の大老・井伊直弼のスパイとして安政の大獄(1858~59)を助けた女性である。直弼の愛人であり、彼の腹心・長野主膳の妾でもあったという村山たか。その生い立ちは、暗い影に包まれたものであった。

 直弼の手足となって働いた彼女にとって、幕末とは何だったのか。自ら望んでスパイになったのだろうか。攘夷志士からは「奸婦」とさげすまれた村山たかの本当の思いを少しでも探ってみたい。

不義の子

 たかが生まれたのは文化6年(1809)。近江国犬上郡多賀(現・滋賀県犬上郡多賀町)の多賀大社にあった寺坊・尊勝院の院主と、寺坊の般若院住職の妹との間に誕生した。しかし世間体をはばかり、寺侍の村山氏に預けられた。

 養父のもとで唄や舞を仕込まれた彼女は、18歳のときに井伊直弼の兄・直亮(なおあき)の侍女となったが、わずか2年で彦根を離れている。

母と同じ運命をたどる

 彦根を離れたたかは「加寿江(可寿江とも)」という名で京・祇園の芸妓になっていた。やがて、金閣寺の僧との間に男子をもうける。ところが世間体を恥じた父により、たかは金閣寺の寺侍・多田源左衛門の妻となり、男児も多田の養子とされた。たかは、自身の母と同じ運命をたどってしまったのである。

直弼との蜜月

 その後、たかは息子を連れて再び彦根に戻っているが、どのように暮らしていたのかはわかっていない。この頃彦根城下には、部屋住みの身を嘆いて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住居で暮らしていた男がいる。彦根藩11代藩主・井伊直中の十四男にあたる井伊直弼である。

 たかと直弼がどのように出会ったのかは伝わっていない。多賀大社が彦根藩からの寄進や保護をうけていたことから、彼女が住んでいた可能性もある多賀大社・尊勝院や般若院、その辺りに何らかの出会いのきっかけがあったのではないかと考えられる。

 将来の見えない直弼は6歳年上の美しい女性・たかとの濃厚な時間の中で自らの憂うつを慰めていたのかもしれない。

長野主膳

 たかと直弼が愛人関係となってから数年後、おそらくは天保13年(1842)11月のことと思われるが、長野主膳という男が直弼を訪ねてきた。

 主膳の出自は詳しくわかっていない。伊勢の国の生まれだったといわれているが、定かではない。物静かな口調で色白で背が高く、今なら「シュッとしたイケメン」という感じだったらしい。しかし眼光は鋭く、只者ではない雰囲気を醸し出していたという。主膳は国学者として、近江市場村(現・滋賀県米原市)に私塾・高尚館を開いていた。

 不遇な生活を送る直弼のもとに、なぜ主膳がやって来たのか? その意図も分かってはいない。しかし直弼は主膳の学問の深さに魅かれ、やがて弟子となった。

 そんな主膳が、直弼の愛人である たか と出会うのは必然。そして「シュッとしたイケメン」が魅力的な女性と深い仲になるのにも時間はかからなかった。直弼はこれを察していたのだろうか。それともあえてそうなるようにしむけたのだろうか。はたまた全く気付かなかった?ちょっと気になる…。

 とにかく たか は、3人の男に愛されるぜいたく(?)な時間を過ごすこととなる。

直弼との別れ

 複雑な蜜月が終わりを迎えたのは、弘化3年(1846)のことである。第15代彦根藩主・井伊直亮の後継ぎとなっていた直元が急死し、直弼が後継者となったのだ。直弼は江戸に召喚され、以降江戸で住まうこととなった。

 たかはどうなったのか。出世の道が開いた直弼の中で、それまで心の支えであった彼女の存在はどう変化したのだろうか。直弼が薩摩藩主になった頃に主膳へ送った文には、たかと関わりを持ったことを悔いていると記されていたそうだ。不義の子として生まれ、不義の子を産んだたかとの関係は、直弼にとっては汚名以外の何物でもなかったのか。

 ところが直弼が江戸に下って間もなくの頃、たかに宛てた手紙がある。その中では愛する人に会えない寂しさが切々としたためられているだけでなく、経済的な支援もしていたようだ。

 一体どちらが本当の直弼なのだろうか?

 主膳にあてた文が偽りなのか、それとも出世をする中で、直弼のたかへの気持ちが薄れたのか。はたまたこの時点で初めて主膳とたかの関係を知り、あてつけのように書いたものなのだろうか。いろいろと気になるのだが人の心の中のことは探りようがない。

大老・直弼

 嘉永3年(1850)11月、第16代彦根藩主となった直弼は、人事の刷新を図る・人材育成を進めるなど、さまざまな藩政改革を行う。嘉永5年(1852)には主膳を彦根藩士として迎えた。以後、主膳は直弼の側近として活動をする。そして藩の重役の多くが主膳の門人で占められるなど、直弼と主膳のつながりはより強固になっていった。

 嘉永6年(1853)の黒船来航以来、幕府は大いに混乱していた。鎖国か開国か、その上次期将軍を誰にするかについてももめていた。そんな中で直弼が大老に任命される。

 大老とは将軍の補佐役で、幕府の重大事の時のみ老中の上に置かれる臨時の役職であり、幕府最高職だ。大老になった直弼は、勅許(天皇の許し)なしに日米修好通商条約(1858)に調印する。次期将軍についても、水戸藩の徳川斉昭らが推していた一橋慶喜ではなく、紀伊藩(現・和歌山県)の徳川慶福(よしとみ:第14代将軍)に決定した。

安政の大獄

 直弼は、慶喜を推していた一橋派への弾圧を強める。たかは、主膳と共に直弼のスパイとなる。京へ入ったたかは、反幕府勢力である志士や公家の情報を収集し、佐幕派の九条関白家と直弼の支配下にいた島田左近との連絡役を務めるなどの活動を行った。

 たかのスパイ工作により、梅田雲浜(うめだうんぴん)をはじめとした多くの志士が捕縛され、命を落とした。これがいわゆる「安政の大獄」である。たかは、直弼・主膳と共に尊攘志士たちの激しい憎悪の的となった。

桜田門外の変

 直弼・主膳の重要なスパイとして活動を続けるたかの毎日は突然として終わりを告げる。安政7年(1860)3月3日、登城途中の直弼が桜田門外で暗殺されたのである。手を下したのは水戸脱藩の尊攘派浪士たち。安政の大獄で多くの仲間が殺された彼らの凄まじい復讐の始まりであった。

 文久2年(1862)7月24日。直弼の腹心である主膳は、直弼亡き後の幕府内での立場に危機感を覚えた彦根藩により捕縛される。そのわずか3日後、何の取調もされないまま主膳は斬首された。武士の身分の証である切腹も許されず、遺体の埋葬も禁じられるという厳しい処罰であった。

桜田門外の変(『少年勝安芳の生涯』より。出典:国会図書館デジタルコレクション)
桜田門外の変(『少年勝安芳の生涯』より。出典:国会図書館デジタルコレクション)

たかに迫る追及の手

 「天誅」の名のもと、過激な尊攘浪士たちが佐幕派の幕臣や公家たちを次々と斬殺。京の町は恐慌状態に陥る。島原遊郭近くの借家に潜んでいたたかも追い詰められてゆく。

 主膳の処刑から3ヶ月、同年11月14日深夜。たかの隠れ家を30人余りの浪士が急襲した。浪士たちはたかを捕らえ、三条大橋の橋柱に縛り付けた。脇にはたかの罪状を書き連ねた制札が掲げられた。曰く…

「この女は長野主膳の妾として主膳の奸計(悪だくみ)を助け、大胆不敵の所業を行った。許すべからざる罪科を犯した女である。(しかし)女であることをもって、死罪一等を減じ…」

 生きさらしの刑に処されたのである。現在の暦で言えば真冬にあたる京の底冷えと、凍えるような川風が小柄なたかの体を襲う。奇異の眼がたかに集まる。しかし、すでに50歳を超えていながら、そうとは思えない美貌と毅然と刑を受けるたかの姿に、罵声を浴びせる者はほとんどいなかったそうだ。

すべてを失って…

 たかが捕縛された翌日には、たか同様にスパイ活動を行っていた息子の多田帯刀も捕縛される。帯刀は粟田口の刑場で斬首、首が晒された。我が子の死はたかの耳にも伝わったことだろう。

 たかの愛した直弼・主膳、そして最愛の息子までもが非業の死を遂げた。たか自身も寒空の下で生きさらしの身である。すべてを失ったたかは、このまま死ぬことを望んでいたかもしれない。

 だが彼女は生き残った。三日三晩晒されたのち、(一説には宝鏡寺の)尼に助けられたのだ。

金福寺にて

 その後、たかは妙寿尼と名乗り、一乗寺にある圓光寺が管理する無住の金福寺に入った。妙寿尼は、幕末の嵐に背を向け、静かにただ静かに暮らした。寺内を掃き清め、境内にある与謝蕪村の墓を清め、ただひたすら仏に仕え、自分の愛した人々の成仏を祈る日々を続ける。妙寿尼の記した過去帳には、直弼と帯刀の戒名もあった。

 身の上話はほとんどすることがなく、息をひそめるように暮らした妙寿尼。巳年生まれのたか・妙寿尼は、弁財天を篤く信仰していたらしく、金福寺には彼女が建立した弁天堂が残っている。

 明治9年(1876)たかは静かに永眠した。享年67歳。墓は圓光寺にある。

あとがき

 不義の子として望まれずに生まれたであろう村山たかと、本来なら歴史の表に出ることはなかったであろう井伊直弼。2人が出会い、惹かれ合ったのは当然だったのかもしれない。仮に藩主となった直弼が、たかとの過去を恥じていたとしても、たかにとっての直弼は出会ったころから変わらない愛すべき大切な存在だったのではないだろうか。

 ではなぜ長野主膳とまで深い仲になったのか。もしかしたら主膳の生い立ちも、たかのそれと似通っていたのかもしれない。同じような影を持った2人が寄り添った。そして不思議のめぐり合わせでさっそうと表舞台に登場した直弼を助けようとした。

 もちろん、彼女のスパイ行為で多くの命が犠牲になったことを肯定するつもりはない。だが、彼女にとって直弼・主膳と共に同じ目標に向かって進むことが、自らが生まれた意味だと思っていたのかもしれない。

 そのすべてを失ったたか・妙寿尼は、ただ密やかに最期を迎えるしかなかった。村山たかは奸婦でも何でもない。ただ生きる意味を追い求めた悲しい女性だった。と、私は思う。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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