幕末彦根藩の右往左往…佐幕藩から勤皇藩へ裏にあった幕府の冷たい仕打ち
- 2025/01/16
戦国武将で徳川四天王の1人・井伊直政は、関ケ原合戦の戦功によって18万石に加増され、上野国高崎藩(現:群馬県高崎市)より石田三成が治めていた近江国彦根の地(現:滋賀県彦根市)に移されます。
有力大名でも容赦なく転封される中、幕末までの260年間、一度の国替えもなく家名を伝え、石高も譜代大名中で最高、幕末には大老を出すなど、さぞ佐幕のこころざし篤い藩だと思いますが、どうも実際の動きは違ったようです。
有力大名でも容赦なく転封される中、幕末までの260年間、一度の国替えもなく家名を伝え、石高も譜代大名中で最高、幕末には大老を出すなど、さぞ佐幕のこころざし篤い藩だと思いますが、どうも実際の動きは違ったようです。
大老・井伊直弼が発端
幕末、外圧に日本が揺れる中、幕府大老職に就いた彦根藩主・井伊直弼(いい なおすけ)。天皇の許しを得ないまま、安政5年(1858)日米修好通商条約に調印したとあって、尊王攘夷派の憎しみの的となります。しかし直弼が天皇の意志をないがしろにしたかと言うと少し違っていて、そもそも井伊家は南北朝以来篤い尊王の心を持った家柄でした。ただし、同時に直弼は、日本の大政は朝廷より徳川幕府に一任されているとの認識がありました。
「開国を迫る列強にこれ以上返事を長引かせれば、軍事力行使の口実を与えるかもしれぬ。清国の二の舞になってはそれこそ取り返しがつかない。ここはひとまず条約を締結し、無勅許の詫びは後で充分にすれば良い。」
「この現実的な判断に反対する者こそ日本を誤る者である。」
この考えのもと、直弼は反対派を果断に処分します。いわゆる安政の大獄です。
しかしその後、万延元年(1860)の水戸浪士による桜田門外の変を引き起こし、直弼は命を落としました。
幕府の嫌がらせに冷えて行く彦根藩主と家中の気持ち
直弼の跡を継いで藩主となったのは直弼の次男直憲(なおのり)13歳です。大名たる直弼の刺客に襲われての横死などはお家断絶に当たります。しかし今御三家の1つである水戸家と譜代大名筆頭の井伊家、幕府を支える大事な両家が争えば、幕府の屋台骨がぐらつきます。老中・安藤信正らは藩主を暗殺された彦根藩をなだめて、直弼負傷の報告を出させ、その存命を装い、のちに病死したとの建前で直憲に遺領を相続させます。しかし誤魔化しというのは、ばれるもので、文久2年(1862)直弼憎しの水戸家出身の一橋慶喜や松平春嶽らの幕閣が誕生すると、以前のことを蒸し返されます。
「無勅許のまま条約を締結して開国したのは朝廷の威信を汚す行為、ましてや藩主が暗殺されたのを隠し通して家名を継ぐなど不届き千万」
結果、10万石の領地削減と京都守護職の解任処分を受けました。
これ以降、彦根藩は譜代筆頭の関ケ原以来の名門に相応しい扱いを受けることなく、以後6年間ほど幕府の命ずるがままにあちこちとこき使われることになるのです。
横浜警備・大坂湾警備・大和五条征伐・天狗党征伐・長州征伐など…。しかしいくら働いても、藩主直憲と藩の悲願である領地全回収と名誉の回復は叶えられません。藩主暗殺事件をうやむやにされたうえ、現将軍の徳川家茂擁立に功労のあった藩への嫌がらせのような仕打ちに、家中の佐幕の気持ちは醒めて行きました。
佐幕藩から勤皇藩への豹変
慶応3年(1867)10月14日の大政奉還の後、11月8日には早くも藩主直憲自身が上京しています。これは薩摩や尾張・広島などと同様の行動です。これを見た岩倉具視は喜びました。岩倉:「彦根藩の勤皇の態度はたとえ本心からでなくとも大きな意味がある」
彦根藩の方でも、南北朝時代に井伊道政が南朝方の宗良(むねなが)親王を擁して北朝方と戦ったことや、京都守護として皇室を守ってきたことを持ち出し、勤皇藩を盛んにアピールします。
鳥羽伏見の戦い(1868)では、直接戦闘には加わりませんが、幕府軍の本陣伏見奉行所を見下ろす丘にある龍雲寺の藩持ち場を、薩摩の砲撃基地として提供します。直憲は藩兵を率いて大津に陣取り、東海道方面からの幕府軍の進撃に備えました。大久保利通は薩摩に次のように書き送っています。
大久保:「彦根が官軍に着いたので、近江の道は関ケ原まで開けた。しばらく大坂の道が絶えても大事ない」
桑名藩の制圧・会津攻めにも積極的に参加し、新選組隊長・近藤勇を捉えるのにも一役買います。戊辰戦争で新政府軍に加わった彦根藩は、下総流山付近に一軍の兵が屯しているとの報せを受け、改めに向かいます。隊長の「大久保大和」と名乗る者を、彦根藩士の渡辺九郎左衛門が近藤であることを見破り、捕縛しました。
幕府・新政府、双方から裏切られたような気分
これらの働きが認められたのか、譜代大名筆頭が新政府軍に着いたのが手柄とされたのか、戦後の報奨も2万石とトップクラスでした。戊辰戦争終結の翌明治2年(1869)には、藩主直憲と有栖川宮熾仁親王の宜子(よしこ)王女との婚儀が整うなど、戊辰戦争での彦根藩の働きは高く評価されます。ところが藩主への爵位授与の時には、石高から言えば公爵にもなれるところを伯爵とされてしまいます。さらに滋賀県の県庁所在地も、重要都市優先の原則で大津に決まってしまいました。
「譜代筆頭でありながら新政府に協力したのに、もっと厚遇されても良いのじゃないだろうか?」
彦根藩は幕府・新政府、双方から裏切られたような気分になりました。
おわりに
版籍奉還後彦根藩知事となった直憲は、明治5年(1872)10月から1年間、西洋へ遊学してアメリカ・イギリス・フランスなどを巡ります。ワシントンでは議会や政府の庁舎の壮大さに感心し、ロンドンでは万博会場であった水晶宮や動物園を見て回りました。これら西洋文明に触発されたのでしょう、帰国後はアメリカ人を雇って洋学校や病院を作り、学芸の普及を図ります。殖産にも力を入れ、茶・桑・漆など有用な植物を盛んに栽培させました。
明治17年(1942)に伯爵に叙せられますが、明治37年(1904)57歳で亡くなりました。彦根藩主としては報われることの少ない生涯でした。
【主な参考文献】
- 新人物往来社/編『幕末維新 最後の藩主285人』(新人物往来社、2009年)
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 最後の藩主』(光文社、2011年)
- 河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社、2020年)
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄