江戸時代の国産砂糖事情 大福が気軽に食べられるのは吉宗公のお陰だった?
- 2024/12/03
江戸時代、大福・羊羹・きんつば・甘納豆など多くの和菓子が庶民にも楽しまれるようになります。これらのお菓子の甘味付けに欠かせないのが砂糖、その原料となるサトウキビは熱帯の植物で本来日本では育ちません。その砂糖の甘味を庶民でも楽しめるようになった影には、八代将軍・徳川吉宗公の尽力がありました。
憧れの甘味、砂糖が伝来するも高根の花
甘いお菓子に砂糖は欠かせません。しかし砂糖が伝来してくる前の日本では、甘葛(あまづら。つる草の一種)の樹液を煮詰めて作る蜜が貴重な甘味料でした。この甘葛は芥川龍之介の『芋粥』に出てくる五位の男が憧れる甘味や、枕草子の有名な「削り氷に甘葛かけて新しき鋺(かなまり)に入れたる」にもあるように、王朝時代の貴重な甘味でした。当然上流貴族だけが味わえるもので庶民は手が届きません。
そんな庶民の憧れの甘味砂糖が日本に伝わったのは、奈良時代天平勝宝5年(753)、仏教の戒律を日本へ伝えるよう懇請された唐の僧・鑑真(がんじん)が、日本へやって来るときに携えて来た舶来品に含まれていたのです。携行品の目録に「石蜜・蔗糖・蜂蜜・甘蔗」と書かれており、ここで言う「石蜜」は氷砂糖か飴、「蔗糖」が砂糖、「甘蔗」はサトウキビを指しているようです。
もっともこの時も本当に伝わっただけで、それ以後も輸入に頼らざるを得ない高価なもので、甘味料ではなく、薬として用いられることが続きます。
江戸時代に入っても輸入頼りは変わらず、わずかに薩摩藩領の奄美大島や琉球でサトウキビが栽培されるのみで、とても国内の需要は満たせません。同じように輸入に頼る薬種も同様で、その対価として大量の金銀が国外に流出し続けました。
「これではいかん 何とか国内需給を」
幕府はこれ以上の金銀流出を避けるため、サトウキビの国内栽培を広めようとします。その先頭に立ったのが八代将軍・徳川吉宗でした。 吉宗は薩摩藩に協力を求めてサトウキビの苗を取り寄せ、享保12年(1727)江戸の浜御殿で栽培を始めます。2年後には早くも収穫にこぎつけ、4年後には黒砂糖の製糖に成功します。各地の農民にも作付けを奨励し、期待に応える農民も出てきました。武蔵国大師河原村の名主・池上幸豊(いけがみ ゆきとよ)もその1人でした。
宝暦11年(1761)、幕府の医者から勧められてサトウキビを植え付けた池上幸豊。研究を重ねて独自の栽培法を編み出し、明和3年(1766)には黒砂糖や白砂糖の精糖に成功します。その後、幸豊は各地に製糖法を広めて回りました。
利益を独占したい薩摩藩
しかし、サトウキビは元々が熱帯の植物、全国での栽培は困難を極めます。地の利を生かしたのが琉球や奄美大島を支配下に置く薩摩藩です。黒砂糖を精製したのが白砂糖ですが、黒砂糖は主に庶民が食べる駄菓子製造に使われます。また、調味料として蕎麦屋・天婦羅屋・鰻屋など、庶民相手の店で大量に消費されました。対して白砂糖は茶席に出される高級菓子の製造に使われたため、上流階級の消費が主でした。値段はもちろん白砂糖の方が上ですが、黒砂糖は需要の多さで圧倒します。そしてこの黒砂糖の栽培が薩摩藩の財政を支えました。
まだまだ需要に追い付かない砂糖製造。薩摩藩は奄美の農民に対してサトウキビの栽培を強制し、それ以外の作物の植え付けを禁止します。薩摩藩ではサトウキビ栽培の主力である奄美大島・喜界島・徳之島に “三島方” と言う役所を置いて稲作を禁止し、島民のほとんどをサトウキビの栽培や製糖作業に従事させて、ノルマが達成できなければ厳罰を科しました。
藩専売制を敷いて農民から安く買いたたき、大坂市場で高値で販売、巨利を得ます。それでも薩摩藩は文政年間(1818~1830)末期には、500万両もの借財に苦しめられたのですが。
平賀源内も動員して高松藩も白砂糖精糖を目指す
三島農民の犠牲の上に増産された黒砂糖によって価格は大きく低下、蕎麦屋など庶民のファストフードや駄菓子は大いに恩恵を被ります。しかし白砂糖は依然として品薄で輸入頼りでした。そこに目を付けたのが四国、高松藩です。薩摩藩の成功を目にした五代藩主・松平頼恭(よりたか)は、元文4年(1739)に藩主の座に着くと、藩の財政改革に乗り出します。頼恭は参勤交代の折にも動植物の標本を集めるほど博物学に関心を持ち、藩士に平賀源内が居たこともあって彼を登用し、藩の薬草園を任せました。薬草として高価な朝鮮人参なども栽培しますが、最も力を入れたのはサトウキビ栽培です。
讃岐は気候は温暖でしたが土壌の水持ちが悪く、稲作には不向きでした。ところがこれがサトウキビの栽培には適していたのです。頼恭の命を受けた源内や多くの学者が製糖の研究に当たり、頼恭の死後もそれは続けられ、遂に寛政2年(1790)、高松藩は白砂糖の製糖に成功します。数年後には大坂で販売できるほどの生産量も確保しました。
高松藩はさらに上を目指し、現在も讃岐の名産として知られ、高級和菓子の原料に欠かせない “和三盆” が誕生します。これはサトウキビの搾り汁を煮詰めた白下糖から、糖密を抜く作業を何度も繰りかえして得られる極上の砂糖です。
高松藩の成功を目にした他の藩も白砂糖の製糖に取り組み、薩摩藩の黒砂糖に高松藩などの白砂糖を加えて、天保年間(1830~1844)にはついに国内の生産量が輸入量を上回りました。
おわりに
17世紀も後半の元禄時代になると好調な経済と庶民文化の隆盛を背景に、菓子作りを専門にする店が増えます。京都を中心に唐衣・春霞・朧夜餅など風雅な名前の白砂糖を使った上生菓子が作られます。庶民は生産が増えた黒砂糖を使った「かりんとう」や「きんつば」、「大福」などを楽しみ、一気に和菓子文化が花開きます。今日味わえる和菓子の多くが、このころに作られたのです。
【主な参考文献】
- 中山圭子『事典 和菓子の世界』(岩波書店、2018年)
- 青木直己『図説 和菓子の今昔』(淡交社、2000年)
- 伊藤汎監修『砂糖の文化誌 日本人と砂糖』(八坂書房、2008年)
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