夜な夜な現れる通り魔!辻斬りと辻番の攻防に刮目せよ
- 2024/11/21
今回は江戸で暗躍した辻斬りと、辻斬りを捕まえるべく闇夜を駆けた、辻番たちの実態をご紹介します。
「辻斬り」は何故起きるのか?「切捨御免」との違い
「辻斬り」とは江戸時代に相次いだ通り魔、及び通行人を刀で斬り付ける行為。特に江戸初期に頻発し、犯人の大半が旗本の子弟と目されました。慶長7年(1602)、辻斬りは引回しの上で ”死罪” に処すと徳川家が決定します。裏を返せば、それ以前は特に禁じられていませんでした。井上玄桐『玄桐筆記』には若き徳川光圀が悪友に唆され、非人を斬ったエピソードが載っています。迷惑千万な話ですが、度胸試しの意味合いもあったのでしょうね。
辻斬りの行状で裁かれた旗本奴(はたもとやっこ。徒党を組んで江戸市中をのし歩いた旗本の青年武士)の筆頭が水野十郎左衛門です。
手下と徒党を組んで暴れ回った挙句、最期は次の辞世の句を詠んで切腹しています。
「落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすべい」
彼の死後、江戸の辻斬りブームは一旦収まります。次に復活するのは元禄年間、生類憐みの令に鬱憤をためた人々の犯行でした。
「切捨御免(きりすてごめん)」は江戸幕府が定めた無礼討ちの法。町人に無礼を働かれた武士は、これを討ち取ってもよいという特権が与えられました。とりわけ問題視されたのが故意に肩を当てる、脇差を盗む、参勤交代の行列を遮るなどの挑発行為。お侍様を辱めた場合、家族もろとも殺されても文句を言えないのが江戸の常識でした。
無礼討ちの合法化は辻斬りが禁じられたのち。当時は「手討」「打捨」と呼ばれていました。幕府にしてみればガス抜きの意図もあったのでしょうか。だからと言って即座に始末できるはずもなく、所定の手続きを踏まねば認可は下りません。目撃者の証言や証拠の提出も必要でした。
もし裏付けが取れなければ単なる辻斬りとして処理されて斬首、身内にも累が及びます。仮に認定が下りても人を殺傷した責任は免れず、1か月の謹慎が命じられました。
辻斬りの動機は様々です。特に多かったのが試し斬りや強盗で丸腰の町人が狙われました。武芸を磨く為、あえて武士に挑んだ者もいます。百人斬り・千人斬りの類は願掛けでもありました。
寛文12年(1672)、鳥取藩出身の白井権八(しらい ごんぱち)は父を侮辱した同僚を斬り殺したのち、江戸に落ち延びて吉原一の花魁・小紫と出会います。若い二人はたちまち恋仲になるものの揚げ代は高く、すぐに金子が尽きてしまいました。もとより逃亡者の身の上、借金のあてはありません。
思い詰めた彼は辻斬りで130人を殺害、身ぐるみを剝ぐ暴挙に及びます。そんなことをしてただで済むはずもなく、最期は鈴ヶ森刑場で処刑と相成りました。権八の末路を知った小紫は廓を抜け出し、愛する人の墓前で自害します。二人の悲恋は江戸っ子の涙を誘い、権八と小紫を供養する比翼塚が目黒不動尊に建てられました。
辻斬りを捕まえる為に 町を守る辻番たち
辻斬りが横行した江戸時代、武家地には辻斬りの抑止策として辻番が、町人地には自身番が置かれました。当時は街灯も設置されておらず、夜ともなれば辺りは真っ暗。辻斬りが潜む物陰には事欠きません。辻番の仕事は武家地の警備。そのはじまりは寛永6年(1629)まで遡ります。
辻番が詰めた番所は辻番所と呼ばれ、昼夜交代制で勤務していました。もちろん夜通し開いており、江戸城下の治安維持に大いに貢献したそうです。辻や曲がり角に置かれたのも意味深ですね。辻番にせよ自身番にせよ提灯を持たず歩いてる人間は必ず呼び止める徹底ぶりで、包囲網をかいくぐるのは困難でした。
最盛期の辻番所の総数は899。このうち大名の管轄が219、旗本の管轄が680を占めます。初期の辻番は武士の役割でしたが、寛政5年(1793)の辻番請負人組合発足後は町人に運営が委ねられます。この頃から風紀が乱れ、博徒が辻番に紛れ込みます。辻番請負人組合が派遣した町人は足軽と同等と見なされた為、脇差と刀の二本差しで任務に当たりました。
辻斬りを捕らえるほかにも辻番の仕事は絶えません。主に酔っ払いの介抱や行き倒れの死体の始末、捨て子の保護などで、親が名乗り出ない赤ん坊は辻番の設置藩が養育することになりました。
徳川家光と忠長に浮上した辻斬りの噂
徳川3代将軍・徳川家光には実弟の忠長がいました。彼は1年以上高崎城に幽閉されたのち、28歳で自害を命じられています。一体何があったのでしょうか?元服後の忠長は55万石の領地を与えられ、「駿河大納言」と呼ばれていました。幼少期はその賢さ故に両親の愛情を独占し、将軍に推されていたと言います。それが尾を引いたのでしょうか、兄弟の間には根深い確執がありました。
忠長は将軍位を奪った兄を恨み、反抗的な態度をとり続けます。母の死後はますます狼藉がエスカレート。寛永7年(1630)には殺生厳禁の賎機山で猿狩りを行い、1240匹の猿を仕留めたと豪語して不興を買います。腰元に無理矢理酒を飲ませて嬲り殺し、殺害した禿の肉を犬に食わせたりもしていました。家臣や領民への虐待は日常化し、皆忠長に怯えます。
失脚の決定打となったのは「雪で濡れた薪に火を熾すのが遅い」と怒り、寺の境内で小姓・小浜七之助を手討ちにした事件でした。
そんな忠長に辻斬りの余罪が浮上するのは自然な展開。自害の理由は辻斬りの正体が将軍家の人間とバレるのを防ぐ為と一部で囁かれています。
辻斬りは忠長に非ず、家光だと主張する説にも注目。男色家の家光は女装で外出するなど奇行が多く、若い頃は夜な夜な城を抜け出し、町で辻斬りをしていたと伝わっています。
真偽のほどは定かではありませんが、あの徳川光圀も辻斬りをしていたので、徳川家の人間ならもしや……と思えてくるのは事実。可愛がっていた小姓や長年仕えた忠臣を手に掛けている以上、町人なんて虫けらのように思っていてもおかしくありません。
小浜藩主・酒井忠勝は『空印言行録』にて、若き家光がお忍びで夜歩きしていたと指摘。忠勝が護衛を兼ね尾行した所、監視に気付いて早々に切り上げ、以来ピタリと徘徊をやめてしまったそうです。行動だけ見るととても怪しいですよね。
5代将軍・徳川綱吉の場合、幕府の失政が辻斬りの発生を招きました。生類憐みの令で町人を締め付けた反動が、無礼討ちや辻斬りの急増となって表れたのです。
おわりに
以上、江戸の町を騒がせた辻斬りの実態でした。水戸黄門のモデルとして有名な光圀ですら過ちを犯していたのはショックですね。士農工商の身分制度が絶対視されていた時代は、町人の命が軽く扱われがちでした。美談に仕立て上げられた権八の事件にしても、やってることは通り魔と変わりありません。だからこそ辻斬りと戦ってきた、辻番たちの活躍に敬意を表したいです。
【主な参考文献】
- 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』
- 森田健司『かわら版で読み解く 江戸の大事件』
- 大石学『シリーズ江戸学 知っておきたい江戸の常識 事件と人物』
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