和彫りは江戸のトレンドだった!? 入墨ブームを支えた町火消しと侠客たち

 北海道先住民族のアイヌや沖縄の人々がまじないとして肌に彫り、江戸時代には罪人への刑罰として用いられた入墨。やがて江戸八百八町を大手を振って練り歩く火消しや侠客のトレードマークになり、粋でいなせな和彫り文化が花開きました。

 今回は国内のみならず、海外のファンも魅了する「入墨」の歴史と魅力をご紹介していきます。

起源は『魏志倭人伝』 入墨は古代から連綿と続く習俗だった

 古今東西、体に入墨を彫る文化は世界各地に受け継がれてきました。入れる理由は様々で、琉球の先住民族やアイヌ女性の間では成人の証明と見なされていました。

 入墨の文様は集落ごとに異なり、一定の年齢を過ぎても入墨をせずにいると、神様の加護が得られないと考えられていました。沖縄の女性が手の甲や指に彫った「ハジチ」(針突)は、呪術的な魔除けを兼ねると共に、死後の国に渡る手形と伝えられています。

ハジチ
ハジチ

 和銅5年(712)に編まれた『古事記』にも、入墨は地方の民の習慣や罪人に施す罰と記述されています。

 日本の入墨文化に関する最古の記述は3世紀に中国の陳寿が書いた『魏志倭人伝』。これは女王・卑弥呼が支配した集落の様子を描写した書で、「男子無大小、皆黥面文身」……邪馬台国の男性は幼児から大人に至るまで、顔と体に入墨をしていると記されていました。

 人々の考えに変化が起こるのは防寒に適した着衣が普及する7世紀以降。織物技術の発展に伴って衣装が洗練されていくのと対照的に、刃物で肌を切り刻む入墨は野蛮と蔑まれ、徐々に衰退していきました。

 太古の人々はほぼ半裸で過ごしていた為、入墨の誇示が勇気の証明に繋がりました。それが全部服の下に隠れてしまうとなれば、わざわざ痛みに耐える必要がありません。

 平安時代には十二単がトレンドとなり、位が高ければ高いほど、貴人が肌を曝すのはタブー視されました。

身体に恥ずかしい文字を刻む入墨刑の歴史

 8世紀には入墨刑が始まり、殺人や殺人未遂を犯した者は額に、窃盗などの軽犯罪に関わった者は腕に入墨を施されました。 当時はまだデザインが統一されていなかった為、罰の入墨を別の入墨で装飾するなどして隠し、別の藩へ流れる不届き者もいたそうです。

江戸時代の入れ墨刑(『古事類苑』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸時代の入れ墨刑(『古事類苑』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 江戸で泥棒が捕まった場合、腕関節の下に二本線を入れるのが一般的。線の幅は三分(約9mm)で、再犯の都度増えていきます。京都では濁点、長州では菱形が彫られ、罪人と一般人を区別していました。

 入墨刑の公的成文化は享保5年(1720)、8代将軍・徳川吉宗が断行した享保の改革がきっかけ。それ以前も各藩の裁量で盗犯に行っていたものの、「残虐である」と非難を受けて廃止された耳そぎ、鼻そぎに代わる罰として『公事方御定書』に採用され、幕府の遠国奉行はこれに倣います。

 享保の改革で入墨の意匠が統一された為、入墨の形状と部位で出身地や罪状が絞り込めるようになったのも利点。なお入墨刑を科されるのは町人のみで、武士は免除されていたそうです。

 肥前では罪人の額の中心にバツ印、肥後では又の字を彫ります。もっと酷いのが筑前(現在の広島)で、初犯の罪人は額に一、再犯時にはノが加わり、三回目は二画が足され「犬」が完成するのでした。額に犬を穿たれる恥辱を考えれば、犯罪抑止効果が見込めそうですね。

入墨刑における各種の入れ墨(『古事類苑』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
入墨刑における各種の入れ墨(『古事類苑』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

入墨がないのは恥?博徒や侠客、火消しの間で人気沸騰

 江戸時代初期、賭場に出入りする侠客の一部が神仏のご利益にあやかろうと目論み、「南無阿弥陀仏」の経文を肩に彫りました。博徒が集まる賭場では諸肌脱ぎが粋とされた為、入墨を見せびらかして男ぶりを上げようと企てたのです。

 片や花街の遊女の間では「起請彫り」と呼ばれる入墨が流行。これは情夫に操を立てる目的で、上腕に相手の年の数だけ黒点を打ったり「~~命」と名前を彫るもの。恋人同士が指の根元にホクロを入れ、永遠の愛を誓ったりもしたそうです。刑罰の入墨とは主旨が異なるので、彫り物と言った方が事実に即していますね。

 飛脚・雲助・鳶職・魚屋を筆頭に褌一丁で汗を流す男たちが墨で素肌を飾るようになるのもこの頃。時代が下るに従って種類が増えた入墨は、渡世人の特権から肉体労働者のオシャレへと変化していきます。とりわけ火消しの活躍は、それまで付き纏っていたアウトローなイメージを刷新しました。

 当時は鳶職が火消しを兼ねていた為、火事場で映える入墨は野次馬の目を引きました。常に火事に脅かされてきた大江戸八百八町の人々にとって、火消しが背負った入墨はまさしくヒーローの象徴でした。

町火消の浮世絵(『江戸の花子供遊び 一番組は組』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
町火消の浮世絵(『江戸の花子供遊び 一番組は組』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 そんな町火消しが好んで入れたのが龍の入墨。古来より水神と同一視されてきた龍は、火消しの身を守り鎮火を早める霊獣として、彼等の全身を色鮮やかに彩りました。安政5年(1858)には浮世絵師の歌川芳虎が龍の入墨で守りを固めた火消しの姿を描いています。龍以外にも水や火に関連する図案が人気を集め、火炎を司る修羅場の守護神・倶利伽羅龍王の尊像は、博徒や火消しから注文が殺到しました。

 入墨ブームが絶頂を迎えるのは庶民が文化の担い手となった江戸後期。曲亭馬琴が葛飾北斎と組んで刊行した『傾城水滸伝』は中国の『水滸伝』を翻案した冒険活劇。その完結から20年後、歌川国芳の画集『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』が大当たりします。

 筋骨隆々の肉体を極彩色の入墨で飾った英雄たちはたちどころに読者を魅了し、浮世絵の図案や技術を取り入れたことで、彫り師の腕は飛躍的に向上していきました。

『通俗水滸傳豪傑百八人之一個・浪子燕青』(出典:ColBase)
『通俗水滸傳豪傑百八人之一個・浪子燕青』(出典:ColBase)

 火消しが個性的な刺青を入れた理由は、焼死体の判別に有効だったからとも言われています。戦国時代の足軽も腕に名前や村の名前を彫るなどし、無縁仏として葬られるのを避けたそうです。

おわりに

 以上、江戸時代に花開いた入墨ブームの背景を紹介しました。

 余談ながら入墨には何通りか呼び方があり、刺青(いれずみ・しせい)は明治以降に定着したもの。著名な文豪・谷崎潤一郎の小説『刺青』が語源で、歳月を経た刺青が青みがかって見える現象にちなんでいるそうです。実際に彫るのはちょっと怖いですが、生きた皮膚と一体化した見事な絵には、職人技の芸術性を感じずにはいられません。


【主な参考文献】
  • 礫川全次『刺青の民俗学』批評社、1997年
  • 吉岡郁夫『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣、2021年
  • 谷平理映子、濱田信義ほか『日本の図像 刺青』パイ インターナショナル、2023年

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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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