華族に憧れた幻の堀江藩 〜「万石事件」とは~
- 2025/03/27

大政奉還がおこなわれた翌年の慶応4年(1868)9月、今の静岡県浜松市舘山寺周辺に突如「堀江藩」という新しい藩が成立します。その後、明治4年(1871)に廃藩置県が実施されると、堀江藩は「堀江県」となりますが、すぐに堀江県は廃され、浜松県へ併合となります。
わずか3年で消えた堀江藩(堀江県)。まさに幻の藩ともいえる堀江藩がなぜ消えたのか。その原因が世にいう「万石事件」です。
わずか3年で消えた堀江藩(堀江県)。まさに幻の藩ともいえる堀江藩がなぜ消えたのか。その原因が世にいう「万石事件」です。
「万石事件」とは
慶応4年(1868)8月、遠江国浜松の堀江村(浜名湖北東部、今の舘山寺)を中心に5千石弱の所領を持つ元幕府の旗本だった大沢基寿(おおさわ もととし)は政府に願い出ます。基寿:「今後の開墾地などを加えると、石高は1万6石となるから藩屏に加えてほしい」
この申し出は同年9月に認可され、大沢氏の陣屋所在地の名前をとって「堀江藩」が誕生し、大沢基寿は大名(藩主)となります。そして、明治2年(1869)6月に版籍奉還がおこなわれると、基寿は華族に列せられて藩知事に任命されます。
しかし、基寿は藩政に尽力するものの、一向に石高が増加せず、政府に指摘される事態に…。
政府:「石高1万6石の上申は偽りである」
さらに、開墾事業の責任者だった安間又左衛門が藩を脱走する騒ぎも起きます。事の真偽が定かにならぬまま、明治4年(1871)7月に廃藩置県を迎え、堀江藩は「堀江県」と改称されますが、同年11月に堀江県は廃止となりました。
石高を1万石余と虚偽上申したことについては訴訟沙汰にまで発展します。そして明治5年(1872)正月、元藩主の大沢基寿は華族から士族へ下げられて禁錮1年、元大参事の金沢利勝ら重臣5名は禁錮1年、その他の者は民籍編入という判決が下されるのです。
この一連の出来事を「万石事件」といいます。
なお、虚偽の石高を申告して藩主・藩知事と華族の地位を得るという出来事に対し、判決内容が比較的軽かった理由としては以下のようなことが考えられます。
- 堀江藩が小藩で実害が少なかったこと
- 政府は廃藩置県後の処理に忙殺されていたこと
- 大沢家と基寿が幕府の高家であり、将軍と朝廷に対する功績があったこと
大沢家とは
ここで、大沢家について少し説明したいと思います。大沢家は上述の通り、江戸幕府の「高家」です。高家とは、幕府における儀式や典礼を司る役職に就くことができる家格の旗本を指します。また、幕末においては幕府と朝廷との取り継ぎも高家の役目でした。
ちなみに、大沢家の先祖はあの藤原道長といわれています。南北朝時代の貞治年間(1362〜1368)に藤原基秀が丹波国大沢村から遠江の堀江にやってきます。そして、基秀の子である基久から大沢姓を名乗るようになったといわれています。
以降、500年以上も大沢家が堀江の地を治めていたわけです。
大沢基寿は事件の主犯格?
幕末期の大沢家当主が大沢基寿です。彼は従四位下の官位を持ち、右京太夫という名前も持っていました。文久元(1861)年の皇女和宮の降嫁時にはお供を果たし、慶応3(1867)年の大政奉還では将軍の辞表を御所へ持っていく大役も担うほど高家の中でも重要な地位にいたと考えられます。そのため、基寿は旧幕府の高家としては最も早く朝臣になっています。
実は、この直後に先述の「1万6石になるから藩屏にしてほしい」という誓願書が提出されています。しかし、なぜ基寿は誓願書を出したのでしょうか?本当に1万石以上の石高にするつもりだったのか、それとも他の思惑があったのか…。この辺を考察するには、この事件が起きた時代背景から調べてみる必要がありそうです。
事件が起きた時代背景
今回の事件は、江戸幕府が消滅して明治新政府が動き出した時期に起きています。世の中が旧体制から新体制に大きく変化する激動の時期ですね。実はこの時、武士にとって大きな変化が起きます。それは「身分制度の変化」です。江戸時代の身分制度は天皇・公家以外はいわゆる「士農工商」として区別され、武士は高い身分に位置していました。一方で、明治新政府は天皇の一族を「皇族」、公家と大名を「華族」、武士を「士族」、それ以外を「平民」と定めました。
つまり、同じ武士でも大名は公家と同じ特権を持つ「華族」へ、それ以外の武士は後に特権を失っていく「士族」へと区別されるようになったのです。ですから、武士は大名か否かで大きく身分が変わってしまうわけです。そして、大名になるための条件が 〝1万石以上の領地を持つ武士〟になります。
上記の身分制度が発表されたのは、版籍奉還と同じ明治2年(1869)6月。基寿が誓願書を出したのがその前年となる慶応4年(1868)8月。もし、基寿が華族制度の内容を既に知っていたとしたら…。
関白道長を先祖に持ち、江戸幕府では高家の中でも特に重要な役割を担い、明治に入るといち早く朝臣になった格式高い大沢家。新しい身分制度の中で、華族に憧れるのは当然ではないでしょうか?
大沢基寿は “クロ” なのか?
ここまで読むと、大沢基寿は「華族になりたくて意図的に嘘をついたとんでもない奴」と思われるでしょう。しかし、実際は領内において、鹿島原23町1反歩の開拓、村櫛・和田・内山村先の浜名湖の干拓など、具体的に石高を上げる計画を進めていたようです。先出の脱走した安間又左衛門も次のように伝えられています。
「浜名湖の干拓計画を急ぐあまり領民に過酷な労働を課し、怨嗟の的となった」
他にも、堀江村に置かれた藩庁には民政・庶務・租税などの係を設け、生産所も新設しています。さらに新札(藩札)の引替を行い、領内の振興に努力しています。
こういった藩政内容を見ると、基寿は華族になるためだけに虚偽の上申をした可能性は低くなり、完全なクロとは言えないようです。ただ、やり方が悪かったのか時間が足りなかったのか…。すぐに石高アップへは繋がらず、結果が出る前に廃止というのが真相でしょうか。
なお、この後の基寿は東京市下谷区の区会議員を務めたり、新聞社の社長をしていたようです。しかし、明治中期になって生活が窮乏したために旧領だったこの地に住む人々に援助を求めにきた、という話も残っています。(堀江邑松助『年代宝蔵記』より)
現在の堀江藩
かつて堀江藩(堀江県)があった場所には、舘山寺温泉街として旅館やホテルが建ち並び、遊園地や動物園などがあります。さらに、キャンプを題材とした人気アニメにも登場して、現在は多くの観光客で賑わっています。
代々大沢家が住んでいた堀江城跡は、江戸時代には堀江陣屋が建てられ、堀江藩庁も置かれました。しかし、現在は城や陣屋などの遺構は残っていません。城門だけが隣の湖西市にある法泉寺に移築されて残っています。
また、堀江陣屋の鬼瓦が舘山寺温泉街にあるホテルのロビーに展示されていましたが、このホテルは現在廃業となり、更地になってしまいました。
なんだか「万石事件」の後のように消えていった堀江藩の名残。
まとめ
一度は大名&華族の地位を得、1万石を目指して領内の振興に力を入れた大沢基寿。彼の真の狙いは何だったのでしょうか。それについて述べられている資料は残されていませんが、幕末〜明治維新の激動期に起きた「万石事件」は、当時の武士の様々な思いが込められていたような気がします。【主な参考文献】
- 『浜松市史 通史編3』(浜松市、1987年)
- 神谷昌志『遠江武将物語 (駿遠豆・ブックス 2) 』(明文出版社、1986年)
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