男装の舞姫「白拍子」…時の権力者たちも彼女たちに夢中だった!?
- 2025/01/20
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白拍子(しらびょうし)という人たちをご存知ですか?源平合戦で有名な源義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)も、実は白拍子という女性芸能者です。元は拍子そのものをさす言葉ですが、しだいに男装をして芸を披露する女性芸能者もさすようになります。男装をした女性が歌を詠み、舞を披露する…。その美しい姿は時の権力者たちを魅了しました。
今回は男装の舞姫「白拍子」の実態について紹介していきます。
今回は男装の舞姫「白拍子」の実態について紹介していきます。
白拍子の衣装
白拍子は具体的にどのような姿をしていたのでしょうか?なんと言っても特徴的なのは、「男装して歌を詠み、舞を披露する」ところにあります。吉田兼好の随筆『徒然草』によると、
「白き水干に、鞘巻を差させ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。」
白色の水干(庶民や下級官人の服装、貴族や武士の普段着の1つ)を着て、腰には刀を差し、頭には立烏帽子という装い。このように成人男性の恰好をしながら、歌と舞を披露したので、男舞と呼んでいた、ということが記されています。
ただし、時代が進むにつれ、その装いはカジュアルになっていきます。刀を帯刀せず、烏帽子を被らずに舞うようになり、水干は色付きのものを着ることも多かったとのこと。このように変遷しつつ、白拍子舞は平安末期から鎌倉時代にかけて大流行しました。
ちなみに「なぜ男装なのか?」という点については、詳しいことはわかっていません。本来、白拍子舞も巫女舞と同様、神事の1つとして扱われており、元は神に捧げる神聖なものだったと言われています。
しかし、実際にはスター的要素が強かったようで、その魅力的な「男装の麗人」姿に、当時の貴族や武士たちは夢中になりました。現代でたとえるなら、歌って踊るアイドル歌手に熱中する…というようなイメージでしょうか。
白拍子の歌舞
では、白拍子の歌舞とはいったいどういうものだったのでしょうか?ポイントとなるのは、歌・鼓・足拍子です。前半と後半で流れが変わる二部構成になっていたとされています。
まず前半は、性別を超越した男装姿で人々を魅了させつつ、歌謡の白拍子に合わせて舞います。そして後半になると、鼓は「セメ」という激しいリズムを打ち始めるのです。白拍子はそのリズムに合わせ、足を踏みならしながら舞い、透き通るような声で即興の歌を披露します。それはまさに、目で見て楽しみ、耳で聞いて楽しむエンタメといった様子。
この即興の歌というのは、今様や漢詩などその場にあった歌を選び出し、時には元の歌を歌い替えて披露するものでした。これには歌に関する知識や教養はもちろんですが、その場の状況に合わせ、機転を利かせた対応が必須になります。
ただ単に見た目が良く、声が良くて、舞ができるだけでは不十分だったのですね。
歴史に名を残す有名な白拍子たち
当時、白拍子が大ブームを巻き起こした要因の1つに、時の権力者たちが彼女たちの歌や舞を気に入り、式典や宴席などで重用したことが挙げられます。平清盛・源義経・後鳥羽上皇などの人物たちも彼女達に魅了され、やがて妾として寵愛するようになります。その白拍子たちの名声はさまざまな文献に残されるほどでした。
次は歴史に名を残す有名な白拍子について紹介していきます。
祇王と仏御前
この2人は平清盛に寵愛された白拍子です。『平家物語』によると、最初に寵愛を受けていたのは祇王で、妹の祇女とともに当時、都で評判の白拍子でした。しばらくすると、地方から都へやってきたとある白拍子がアポなしで清盛宅へ訪問します。それが仏御前です。最初は追い払おうとする清盛。そこで祇王が情けをかけ、仏御前が白拍子の歌舞を披露できるよう取り計らいます。実際に仏御前の白拍子舞を見た清盛。その歌と舞のすばらしさに清盛は仏御前に夢中になってしまいます。結果として用なしとばかりに、祇王は清盛の元から追い出されてしまうのです。

しばらくすると清盛から、元気のない仏御前を慰めるために屋敷へ来てほしいと連絡がきます。屈辱さや無念さを隠し、ここで祇王が披露した歌は、
仏も昔は凡夫なり 我らも終には仏なり
いずれも仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ
(仏も昔は普通の人でした。そして、私たちも最後には仏となるのです。 どちらも仏の本性を持つのに、それを隔てるというのは悲しいものです。)
という歌でした。
その後、世を儚んだ祇王は妹や母とともに出家。なんと仏御前も後を追うように出家し、3人の家を訪ねます。その後は4人で尼として余生を過ごしたというエピソードが残っています。
静御前
悲劇のヒーローとして名高い源義経。そんな彼の愛妾と言えば静御前です。
平家滅亡後、後白河天皇は兄頼朝に「義経追討」の院宣を下します。平家追討の功労者から一転、今度は追討される身となった義経。静御前も同行しますが、ついに2人は泣く泣く吉野で別れます。
その後、静御前は吉野の山中で捕まり、鎌倉へ連行されます。義経の子供を身ごもりながら、静御前が鶴岡八幡宮で披露した歌がこの有名な2首です。
よし野山 峰の白雪ふみ分けて 入りにし人のあとぞ恋しき
(吉野山の峰に降る白雪を踏み分けながら、姿を隠していったあの人(=義経)の踏み分けた跡に心惹かれてしまいます。)
しづやしづ 賤のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
(糸を繰り返し巻いてできる苧環(おだまき)のように、静、静と私の名を繰り返し呼んでもらえたあの頃。今と昔をかえる方法があるのなら、どんなに良いでしょうか。)
これは後半の「セメ」の部分で披露された歌です。敵地のど真ん中にありながら、鼓と足拍子の激しいセッションの合間に義経を慕う歌をうたう…。その静御前の度胸に、当時の観客たちは感服したのではないでしょうか。
亀菊
亀菊は別名伊賀局とも言われ、元白拍子ながら、後鳥羽上皇の寵姫でもありました。実はこちらの亀菊、朝廷と幕府が衝突した事件「承久の乱」の原因の1つになった人物だったのです。
亀菊は後鳥羽上皇から摂津国にある土地、長江荘・倉橋荘を与えられました。その時、後鳥羽上皇は幕府にこの2つの土地の地頭職の廃止を要求したものの、幕府は拒絶。これで幕府との関係が悪化し、承久の乱が起きるきっかけになったとされています。
ちなみに亀菊は承久の乱後、後鳥羽上皇が隠岐に配流された際は同行し、上皇が亡くなるまで仕えたと言われています。
おわりに
男装の舞姫「白拍子」の全盛は、平安後期から鎌倉時代。室町時代初期には衰退してしまいます。しかし、「二人静」「道成寺」など、能や歌舞伎などに白拍子が登場する作品が残り、さらに毎年4月に鎌倉で行われる「鎌倉まつり」では、鶴岡八幡宮において白拍子に扮する舞手が「静の舞」を披露されています。また10月に京都で開催される「時代祭」では、白拍子も行列に加わり、当時の装いを再現しています。みなさんも機会があれば、是非見学に訪れてみてくださいね。
【主な参考文献】
- 脇田晴子『女性芸能の源流 傀儡子・曲舞・白拍子』(KADOKAWA、2001年)
- 細川涼一『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』(吉川弘文館、2017年)
- 沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』(吉川弘文館、2016年)
- 歴史科学協議会『知っておきたい歴史の新常識』(勉誠出版、2017年)
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