凄まじい諜報合戦!戦国時代の忍者の実態
- 2024/12/12
山田風太郎の小説や時代劇でお馴染みの存在、忍者。心身を極限まで鍛え上げて彼等が身に付けた絶技は、今もって我々の心を惹き付けてやみません。欧米での人気も高く、忍者を題材にした作品が沢山制作されています。今回は泥臭い合戦の裏側で密かに暗躍していた忍者のルーツや、その知られざる内幕をご紹介していきます。
京都にほど近い伊賀・甲賀は忍の里
我々がイメージする忍者の元祖は聖徳太子の家来、大伴細人。主君の政敵・物部守屋暗殺の実行犯と言われています。聖徳太子は細人の功績を称え、「志能便」(しのび)の称号を下賜しました。南北朝時代に横行した野盗の類が在野の忍者に吸収されたと考える人もいます。忍者が出世の機会を得たのは戦国時代、名だたる武将が群雄割拠する日本。それに先駆け、長享元年(1487)ならびに延徳3年(1491)の長享・延徳の乱でも活躍しています。長享・延徳の乱は足利義尚を戴く室町幕府と六角家の争いで、のちに甲賀忍者として知られる甲賀一族は六角家側に加わり、甲賀山間部で激烈なゲリラ戦を繰り広げました。
甲賀忍者が用いた「亀六ノ法」はもともと六角家秘伝の戦術で、敵の討ち入り時は山中に隠れ、撤退時に背後から奇襲を仕掛ける策でした。幕府の陣に火を放って指揮系統を混乱させたのも甲賀忍者の仕業です。
六角家の後ろ盾を得た甲賀忍者とは対照的に、伊賀忍者は特定の主を持たず、傭兵のように各地を渡り歩いていました。
甲賀と伊賀はどちらも京都に程近く、戦国の世とあらば雇い主には事欠きません。両者の里は山を隔て隣り合っていたものの、その暮らしぶりには明確な違いがありました。どちらも地侍をルーツとするのは同じですが、甲賀の者は里で栽培している薬草を煎じて丸薬の材料とし、伊賀の者は日中は畑に出、夜を待って寺に集まり訓練を行ったのです。ちなみに甲賀は滋賀県、伊賀は三重県に属します。
東を鈴鹿山脈、西を笠置山地に挟まれた複雑な地形は、攻防一体の隠れ里を構えるのに最適な環境でした。里の家々は谷間に張り付くように点在し、隆起した岩が視線を遮ります。早い話が天然の要塞になっており、谷の両側から敵を挟撃する戦法がとれました。
フィクションでは不倶戴天の宿敵めいて語られがちですが、甲賀と伊賀が正面衝突した記録はありません。同盟を組んでいた事実を鑑みると、それは後世の創作なのでしょうね。
忍者の呼び名が定着したのは後世だった
忍者の呼び名が定着したのは明治時代以降。それまでは草、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)と呼ばれていました。寛永18年(1641)に三浦浄心が書いた『北条五代記』では、戦国大名の命を受け他国に潜入し、闇討ちや諜報に従事する集団を乱波と称し、その総大将として風魔一族の名前を挙げています。戦国時代の忍者の主な任務は諜報。織田信長や徳川家康を筆頭にした戦国武将たちも忍者を飼いならし、情報収集を行っていたと言います。とりわけ家康と忍者の縁は深く、徳川幕府の樹立後は将軍直属の密偵、御庭番を起ち上げています。毛利元就や上杉謙信も有能な忍者を召し抱えていました。
数々の暗器を使いこなすのも忍者の強み。鉄鋼鉤・手裏剣・クナイ・鎖鎌・吹き矢と、近接戦闘用の武器から飛び道具まで豊富に取り揃えています。故に護衛として重宝され、貴人の旅に同行を求められるケースもありました。
行軍中の瀬踏み(川の下見)も大事な役目。当時の合戦場は広く、複数の川が陣地を隔てていることもありました。が、川の深さは見た目ではわからないもの。対岸を目指す道半ばで立往生を余儀なくされたり、最悪押し流される危険も否定できません。そこで先行して水位を測り、味方が安全に渡れる場所を調べたのです。
この為に鞣革の浮き輪や呼吸用の竹筒も開発したというのですから、凄まじい執念ですね。もちろん水遁の術も活用しました。
根来衆・軒猿・真田忍軍……最強の戦国忍者は誰?
忍者と親交が深い武将といえば安芸の毛利元就。元就は座頭衆と世鬼( せき )一族を従え、彼等を全国に派遣しました。世鬼一族は今川家の末裔と自負する忍者集団で、頭領の世鬼政時(せき まさとき)を筆頭に25人の精鋭が揃っていました。片や座頭衆のトップは角都(かくづ)といい、元就と敵対していた尼子晴久に取り入り、まんまと彼を謀って身内を粛清させました。越後の上杉謙信は軒猿(のきざる)を重用。彼等は永禄4年(1561)の川中島の戦いにて暗躍し、主君を窮地から救ったといいます。武田信玄の軍師・山本勘助が提案した奇襲「啄木鳥戦法」をスパイが見抜き、陣中の謙信に速やかに伝えた為、敵の裏をかくことに成功したのです。
和歌山県根来寺の僧兵集団・根来衆や雑賀の地侍・雑賀衆も広義の忍者に分類できます。
前者は津田監物が種子島より持ち帰った鉄砲をよく研究し、火縄銃の扱いと火薬の知識を学びました。対する雑賀衆は近畿地方を拠点とする傭兵集団。本願寺の戦いでは根来衆が織田信長に、雑賀衆が本願寺側に付いて戦います。結果は信長の勝利でした。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めの際には一時的に協定締結。昔日の禍根は水に流し共闘したものの、根来寺を落とされ散り散りになった末路は、歴史の皮肉を感じさせます。
大河ドラマ「真田丸」で一躍有名になった出浦昌相(いでうら まさすけ)は、諜報の達人として知られ、子飼いの忍者1000人を各地に放っていたとか。後世の創作であるものの、『本藩名士小伝』では、昌相のことを〝甲州透破の棟梁〟と記しています。
出浦昌相の元主君である武田信玄は、忍者を「三ツ者」と呼び、索敵・攪乱に当たらせていました。全国を行脚する歩き巫女をスパイに仕立てたのも信玄の発想です。歩き巫女は託宣の他に売春も行っていたので、色仕掛けで情報を聞き出すのはお手の物でした。
このほか、伝承上の架空の人物ではありますが、信濃の真田幸村には、忍術使いの猿飛佐助や霧隠才蔵など、「真田十勇士」と呼ばれる10人の優秀な家来がいることもよく知られていますね。
おわりに
以上、戦国時代の忍者のルーツや任務の概要を解説しました。くノ一に関しては一部で存在を疑問視されているものの、信玄に仕えた歩き巫女の実例があるなら、そこまで非常識な話ではないかもしれません。昨日の敵は今日の友を地で行く根来衆と雑賀衆の因縁はドラマチックでした。【主な参考文献】
- 山田雄司『忍者の歴史』(KADOKAWA、2016年)
- 清水昇『戦国忍者は歴史をどう動かしたのか?』(ベストセラーズ、2009年)
- 中島篤巳『忍者の兵法 三大秘伝書を読む』(KADOKAWA 、2017年)
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