「どうする家康」服部半蔵登場!でもそもそも忍びの起源とは? ──忍者入門──

 大河ドラマ「どうする家康」第5回「瀬名奪還作戦」(第6回はその続編「続・瀬名奪還作戦」)では、山田孝之さん演じる服部半蔵が初登場となり、話題となりました。半蔵正成は「忍び」という印象が一般には強いですが、半蔵が「忍び」であったとする確かな史料は残されていません。しかし、そもそも忍びや忍者とはどのような存在であったのでしょう。

 忍びと似たような用語に間諜(スパイ。敵の様子を密かに探り、味方に知らせる)がありますが、この間諜という用語は『日本書紀』(奈良時代に成立した歴史書)に登場してきます。これが、日本史上における「間諜」の初見となります。同書の推古天皇9年(601)9月8日条に「新羅の間諜の迦摩多(かまた)、対馬に至れり。則ち捕えて貢る。上野に流す」とあるのです。つまり、古代朝鮮の新羅国の間諜である迦摩多が対馬に潜入してきたので、捕えて、上野国(群馬県)に配流にしたということです。『日本書紀』には「間諜」の語に「ウカミ」という和語を当てています。

 また、同書に掲載されている、いわゆる「改新の詔」(646年。大化の改新において、新たな施政方針を示すために発せられた天皇の命令)にも「斥候」(うかみ)を置くという一文があるのです。よって、間諜は大陸や朝鮮半島のみならず、日本国にも同種のものがいたと思われます。

 江戸時代前期に成立した忍術の秘伝書『万川集海』には、忍びの起源にまつわる問答が掲載されています。「我が国において、忍びの道というものは、いつの時代から始まったのでしょう?」という問いには次のような回答が書かれています。

 「39代の帝・天智天皇の弟は天武天皇です。この天武天皇の御代に、清光親王が謀反を企てます。親王は山城国愛宕郡に城郭を構え、籠城。そこに、天武天皇方として、多胡弥(たこや)という者が忍び入る。多胡弥は、城内に潜入し、火を付けます。これにより、天皇の軍勢は外より攻め入り、城を瞬く間に落とすのです。これが、我が国において、忍術を用いた始めです。このことは、日本書紀に載っています」と。

 天武天皇は、飛鳥時代の天皇であり、天智天皇の子・大友皇子との壬申の乱(672年)に勝利し、即位したことで知られています。

 そんな天武天皇の時代に、清光親王の謀反があり、多胡弥という人物が「忍術」で初めて活躍、それは『日本書紀』に載っているというのですが、これは全くの嘘です。清光親王自体が存在しませんし、前述の話は『日本書紀』に記載されていないのです。

 前述の逸話は壬申の乱を想定し、それと忍術の起源をつなぎ合わせたものと解釈できるのかもしれませんが、真相は謎です。忍術や忍者の起源については不明なところもありますが、古代日本においても、同種のものがいたことは確かではないでしょうか。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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