仕事をしなかった老中・松平康福 老中の仕事って一体…?
- 2025/01/05
松平康福(まつだいら やすよし、1719~89)は、徳川吉宗→家重→家治→家斉、と4代もの将軍に仕え、最終的には「老中首座」という立法・行政のトップにまで上り詰めた人物です。出世コースを順調にたどった割に知名度は高くはありません。そのワケは彼は「仕事をしない老中」として有名な人物だったからです。業績を残していないので歴史に名前が残っていないのです。
仕事をしないのに順調に出世コースを進めたのは、仕事をしないことで失敗を最小限に抑える効果があったことと、出自の良さがあいまってのことでした。名家の出身で失敗が無ければ、よほどの不運にでも見舞われない限り、それなりに順調に出世できたのです。
仕事をせずとも務まる老中って一体どんなことをしていたのでしょうか? 今回は彼の簡単な事績とともに、老中の仕事についても触れていきましょう。
仕事をしないのに順調に出世コースを進めたのは、仕事をしないことで失敗を最小限に抑える効果があったことと、出自の良さがあいまってのことでした。名家の出身で失敗が無ければ、よほどの不運にでも見舞われない限り、それなりに順調に出世できたのです。
仕事をせずとも務まる老中って一体どんなことをしていたのでしょうか? 今回は彼の簡単な事績とともに、老中の仕事についても触れていきましょう。
出世コースをたどった松平康福
松平康福は石見国(島根県)の浜田藩主・松平康豊の長男として生まれ、元文元年(1736)に家督を相続。寛延2年(1749)には将軍に各種の報告を行い、将軍代理として下達を行ったりする役職である「奏者番」となります。やがて「寺社奉行」も兼任、「大阪城代」も務めるなど、順調に出世して宝暦12年(1762)には「西の丸老中」に任命されました。その間には、浜田藩主から下総国(茨城県)の古河藩主、三河国(愛知県)の岡崎藩主、と転封を重ね、ふたたび旧領の浜田へ戻っています。
田沼時代の天明元年(1781)にはついに「老中首座」となり、天明5年(1785)には1万石加増で6万1千石となっています。
西の丸老中とは?
松平康福が最初に任命された老中職「西の丸老中」というのは、徳川将軍、及び世継ぎの日常生活の家政を取り仕切るのが仕事であり、一般に知られる老中(本丸老中)とは違って幕政には一切、関与しませんでした。将軍家、世継ぎの世話係はたくさんいますので、その世話にかかる費用だけを見ていれば良いという老中とはいえ、特に重大な決断などはしなくてもよい気楽な老中職でした。
実質的にほぼ何もしなくてよいのですから、松平康福にはうってつけの職といえるでしょう。しかし、西の丸老中は、「老中」になるためのステップアップ職であるので、ずっと続ける訳にはいきません。やがて松平康福も正式な老中となります。
老中の仕事
「老中」というのは4~5人が任命され、合議制で問題解決にあたる、というのが基本的なスタイルです。一応、月番というのがあり、一か月交代でした。月番は必ず登城して老中執務室に詰めている必要がありましたが、実際には他の月番でない老中も登城していることが多かったのです。主な仕事は幕政の実施において発生してきた問題全般の対応で、必要とあれば新しい法律を発布することも可能な万能な組織でした。行政、立法、司法の3権全てを備えているのですから怖いものなしです。しかし、内容によっては将軍の意向を組む必要があると思われるものもあります。そういう場合、側用人を通じて将軍にお伺いをたて、最終判断を下しました。
一応、老中には「老中首座」という役割があり、老中グループのリーダーとされましたが、合議制ですので、あまり業務遂行に大きな影響はありませんでした。時折、時代劇に登場する「大老」という職種もありました。これは老中グループだけでは対応が難しいかもしれないという、非常に大きな問題が発生した時だけに任命される一時的な役職です。通常時は老中が幕政のトップでした。
松平康福も明和元年(1764)に老中に任命されます。とはいっても合議制ですから、極端に言ってしまえば、他の老中の意見に賛成さえしていれば、それで事は済んでしまうのです。特に安永元年(1772)に老中になった田沼意次が幕政を取り仕切り始めたことは、康福にとっては好都合でした。田沼の案に賛成していればOKだったのですから。
老中グループのメンバーには特に誰が何をやるという、いわゆる職掌はありませんでしたが、唯一、老中首座には勝手係という、勘定奉行を管理する役割がありました。松平康福が年功により老中首座になった(1781年)時、田沼意次は勝手係を心配して例外的に勝手係を他のメンバーに変更、その代わり、松平康福には1万石を加増する(1785年)という計らいを行いました。
康福からしてみれば面倒な勝手係はやらなくていいわ、1万石は加増されるわ、で有難いことだらけです。康福の次女が田沼意知の室だった関係もあいまって、康福は田沼意次の熱烈な支持者となります。
やがて田沼意次が失脚し、松平定信が老中の中心役を果たすようになっても、康福の田沼支持は変わらず、松平定信の批判ばかりしていたそうです。そして天明8年(1788)4月、康福は老中を免職(辞職)となりました。
2対8の法則
現代社会でも2対8の法則というのが話題に上ることがあります。要は10人で10の仕事をこなす時、結果的に全体の8割の仕事は2人の人がこなしており、残りの8人で残りの2割の仕事をこなしているという経験則です。松平康福は「残りの8人」のほうだったわけです。幕政という難しい仕事をこなすには、やはりそれなりの見識と知性が必要であり、それらが足りないのに老中にまで出世してしまったら康福のように身を処すしかなかったといえるでしょう。任命した方に責任もあるでしょうが、いつの時代にも必ずしも適材な人物がいるとは言えないので、仕方ないと考えるべきかもしれません。
歴史に登場する数多くの人物の中で、主人公となる者もいれば、そうでない者もいます。そして当然ながら全員が主人公になれる訳もなく、なれない人の方が圧倒的に多いのです。それでも松平康福がいなければ、当時の老中グループは存在しなかった、という点を考えれば、少なくとも彼も歴史の一端を担ったといえるでしょう。
おわりに
繰り返しますが、田沼意次や松平定信のように、歴史に名を残す仕事をした老中の方が数少ないのです。逆に松平康福の方が老中としては一般的な人物像であったという見方もできます。そう捉えたら、松平康福にも親しみを覚えませんか?歴史というのは、彼のように影に埋もれてしまった多くの人物も必要としたのだ、というのは少なくとも事実と言えそうです。
【主な参考文献】
- 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版、1994年)
- 根岸鎮衛『耳嚢 上』(岩波書店、1991年)
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