遅れて来た天下無双の剣士・宮本武蔵の就活人生…その晩年は?

 孤高の剣豪のように言われる宮本武蔵ですが、本当は満足する地位と報酬を得て安定した生活を送りたかったようです。

兵法を極めた者はこれぐらい当然

 戦国時代末期から戦えば連戦連勝、剣豪として名を轟かせ、江戸初期には生ける伝説と化していた宮本武蔵。窮屈な宮仕えなどせず、己の剣を磨くことに一生を捧げたと言われますが、実は武蔵は安定した仕官の口を探していたのです。

 しかし己を頼むことの強かった武蔵は、ありきたりの条件ではプライドが邪魔をして奉公が出来ませんでした。

「大藩の藩主の剣術指南に…」

 こう考えた武蔵は各地を旅してまわり、名のある剣士と試合を繰り返して懸命に自分の腕をアピールしますが、思うような殿様の剣術指南の座は回って来ません。

 武蔵の著した『五輪書』を読むと、「兵法を極めるのは、この世のことわりのすべてを把握するのに通じる行為だ」そうです。

 「兵法の理にまかせて諸芸・諸能の道と成せば、万事に置いて我に師匠なし」つまり「私が自分のものにした兵法の理論に照らし合わせれば、すべての芸能・技能の技をこなすなど容易い事、よって私に師匠など必要ない」と言っています。

 確かに武蔵は『五倫の書』や『枯木鳴鵙図』など優れた書物や絵画を残しましたが、これは芸術にも才能を見せた剣豪ではなく、〝兵法さえ極めればこれぐらい当然の結果〟という証明でした。そんな私を迎えるには三顧の礼を尽くして貰わなければ、と言いたいのでしょうか。

戦国の世は終わった

 腕はたってもあまり協調性のなさそうな武蔵。戦国の世なら彼のような人物でも欲しがる大名はいたでしょうが、彼が生まれたのは天正10~12年(1582~84)ごろとされ、二十歳になったころにはすでに関ケ原合戦も終わっていました。

 切った張ったの時代は遠ざかりつつありましたが、それでも剣1本で立ちたい武蔵。出来るなら江戸の徳川将軍家、それがかなわぬなら尾張徳川家の剣術指南の座を狙います。しかしそのポストはすでに柳生家の一族が占めていて願いは叶いません。無位無官の浪人である武蔵が名門殿様の剣術指南になどなれませんが、それでも尾張藩主・徳川義直の御前試合の機会に恵まれます。

 武蔵の構えは両手に刀を構える二天一流、相手をした義直の家臣は蛇に睨まれた蛙状態で身動きも出来ず、武蔵の剣を鼻先に突きつけられ、勝負は決しました。しかし圧倒的な技量を見せたにもかかわらず、仕官は叶いませんでした。

「無分別にて大兵法を遣い損しぬ」

 武蔵はこう漏らします。「段違いの相手に兵法の極意を見せつけるような戦いをして失敗した」と悔やんだのですね。武蔵の相手に選ばれるぐらいですから、義直ご自慢の剣の遣い手だったのでしょう。その相手を無残な敗北に追い込んでは義直も気分が悪かったことでしょう。

 あるいは俸禄として一千石を望んだため、義直があきれたからとも言います。一石15万円として一千石と言えば1億5千万円、いくら高名な剣士であってもふらりと現れた浪人者の無法な高望みです。そして尾張藩ではすでに柳生利厳(としよし)が300石で剣術指南役を務めていました。

なかなか腰が落ち着かぬ

 慶長19~20年(1614~15)の大坂の陣において、武蔵は豊臣方として城内に籠り、侍大将として出陣したと記録されています。その後、姫路城下に住み、寺院の造作などをして暮らしましたが、元和8年(1622)に姫路藩主となった本多忠刻が、武蔵を招こうとします。武蔵はこれを断り、養子の造酒之助が700石で小姓として勤めます。

 その後、武蔵は明石10万石の小笠原忠真の元に客分として留まり、城内の屋敷の縄張りや寺院の造園を行っています。兵法の理を極めた武蔵は何でも出来たのでしょう。ここでも養子の伊織を忠真の傍仕えに残して立ち去っています。

肥後細川家に落ち着く

 あちこち彷徨っても思うような仕官を遂げられなかった武蔵ですが、寛永17年(1640)肥後54万石藩主・細川忠利とつながりが出来ます。

水前寺成趣園内(熊本県熊本市中央区水前寺公園)にある細川忠利像
水前寺成趣園内(熊本県熊本市中央区水前寺公園)にある細川忠利像

 武蔵を招きたいと考えた忠利が、江戸詰めの岩間六兵衛を通して待遇の望みを尋ねてくれました。

 武蔵は次のように答えています。

「奉公というものを一切してこなかったので、待遇と言われてもわからないが、逗留せよとのことであれば参ります。その時はいざという時の馬具一式と乗り換えの馬を用意してもらえば結構です。家屋敷や家財道具には関心がありません。ご教授出来ることは武具の扱いや軍陣の事ですが、治国の要諦も伝授出来ましょう」

 この時の細川家の条件が17人扶持・合力米18石でしたが、まもなく堪忍米として300石を給する、とあります。その名目も「堪忍分之御合力米」として、生活を支えるにはこれで足りるでしょうが、細川藩であれば本来はもっと支給できるはずであるが、と武蔵に気を使っています。

 同年8月、肥後国にやって来た武蔵57歳は、熊本城の郭内・千葉城の一角に住まいし、自ら鍛錬工夫した兵法を家臣に教えたりして過ごします。時には岩戸山雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の霊巌洞(れいがんどう)に籠って心身を鍛えます。

宮本武蔵が兵法『五輪書』を記したという洞窟、霊巌洞(熊本県熊本市西区松尾町平山)
宮本武蔵が兵法『五輪書』を記したという洞窟、霊巌洞(熊本県熊本市西区松尾町平山)

客分として大切に扱われる

 寛永17年(1640)11月、武蔵は熊本山鹿温泉の湯治場に、これも客将であった足利将軍家の一族・足利道鑑と共に招かれます。忠利が目の病に罹っており、温泉治療の話し相手として呼びました。翌年正月2日には熊本城本丸の奥書院の特別に招き入れられ、年賀の膳も賜るなど客分として丁寧に扱われます。

 熊本時代の武蔵は、時には孤高の剣法者らしい頑なさを見せましたが、忠利や忠利の弟・長岡寄之らは暖かく見守ったようです。武蔵を招いてくれた忠利は、寛永18年正月から右足の痺れを訴え、3月に入ると下血・発熱もあり、14日に様態が急変、17日に亡くなります。武蔵が熊本にやって来てから1年も経っていません。

 晩年の武蔵は病がちになり、死期を悟って霊厳洞に籠もり、臨終を待ちます。そんな武蔵に「このような処では諸事不便であるから御城下に戻って養生されるように」と説得し、連れ帰ったのも寄之でした。その後も寄之は医者を遣わしたり、自身でもたびたび見舞いに訪れますが、正保2年(1645)5月、千葉城の屋敷で武蔵は亡くなりました。享年62歳、最後は良き人々に囲まれた穏やかな臨終でした。

 武蔵の死後、藩葬とも言える葬儀が行なわれ、武蔵の「死後も藩主を見守りたい」との遺言から参勤交代の行列が通る大津街道沿いの弓削村に墓が立てられました。

おわりに

 晩年、すっかり白髪頭になった武蔵は、57歳になり、やっと肥後細川家に落ち着く事が出来ました。そこでこんな言葉を残しています。

「一生の間欲心を思わず」

 「いやいや、一千石要求したでしょ?」と思いますが、最後に辿り着いた安住の地で藩主や周りの人々からも大切に扱われ、生涯を閉じました。


【主な参考文献】

  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。