陰陽師と呪術師は違うのか? 安倍晴明から現代まで繋がる“秘術”の系譜を読み解く
- 2025/12/11
一方、大人気アニメ『呪術廻戦』では、呪術師たちが呪物や式神を操り、人々の負の感情から生まれる「呪い」や「呪霊」と戦う姿が描かれています。それは、人間の弱さや不安を映し出し、長い歴史と人々の思いを繋ぐ壮大な世界観です。
西洋の「魔法」とは一線を画し、日本の風土や自然、そして人々の内面から湧き出るような感覚を伴う陰陽道と呪術。この日本独自の神秘の力、そしてその代名詞とも言える陰陽師は、一体どのような起源を持ち、どのように歴史の中で変遷してきたのでしょうか。
日本における呪術の萌芽と「陰陽道」の確立
アニメや小説の影響で、戦う陰陽師のイメージが強くなると、呪術師との区別が曖昧になりがちです。しかし、「陰陽道」と「呪術」は必ずしも同一ではありません。呪術の概念はより古く、日本の古代から行われていたと考えられています。縄文時代の土偶は、人々の願いや祈りが込められた呪術に関係するものと言われており、邪馬台国の卑弥呼が行った「鬼道」も、神の啓示を受ける呪術的な力だったのでしょう。
古墳時代に入ると、大王(後の天皇)などの権力者が司祭的な役割を担い、権力の象徴として、また死後の蘇りによる呪いを封じるための古墳(石室・朱塗り)が築かれました。やがて、リーダーが武人的性格を強めるにつれ、魔除けを目的とした装飾古墳が増えていきます。
飛鳥時代には、大陸から陰陽五行説が伝来します。これは、万物を「陰」と「陽」で捉え、世界が「木・火・土・金・水」の五元素から成り立つとする古代中国の自然哲学です。その後は仏教伝来を経て、奈良時代には「神仏習合」という独自の宗教観が形成され、この頃から呪術は国家の管理下に置かれることになりました。
律令制下における「陰陽師」は、単なる占い師ではありませんでした。「天文学」「気象学」「易学」「暦学」などの高度な学問を修め、方角や土地(風水)、さらには時間の管理(水時計「漏刻」による)を担う、国家資格を要する専門の技官だったのです。彼らは太政官の組織内にある「陰陽寮」に所属し、「暦博士」「天文博士」らと並ぶ存在でした。
この律令制度は平安時代以降は形骸化しつつも、明治時代に廃止されるまで修正されながら存続しました。長い歴史の中で、陰陽道は多様な流派に分かれ、官人陰陽師と民間陰陽師という立場の違いを生み出しながら、政治と人々の生活に深く関わっていきました。
陰陽師「安倍晴明」が有名なわけ
陰陽師の中でも、安倍晴明ほど人々の想像力を掻き立て、物語の題材となり、江戸時代に神格化までされた人物はいません。
その出生には多くの伝説があり、15世紀の臨済宗僧侶の日記『臥雲日件録』では、晴明は人ではなく「化生の者(物の怪のような存在)」と記されています。中でも最も有名なのが、「葛葉」という狐を母として生まれたとされる「葛葉伝説」です。父親は安倍安保(安倍仲麻呂の子孫)とされています。
『今昔物語集』などの説話集には、晴明が少年時代から鬼の姿を見ることができたという記述が残ります。また、『源平盛衰記』や『宇治拾遺物語』などには、式神と呼ばれる鬼神を自在に操る術者としての姿が描かれています。
晴明は、自らの陰陽道の力を世に知らしめる才能にも長けていたようです。
彼と同時代に活躍した陰陽師に、師でもあった賀茂保憲がいます。保憲が亡くなった後、晴明はさらに約30年間生き続け、それまで門外不出とされていた占術の秘伝をまとめた書『古事略決』を公開しました。この行動により、貴族社会における彼の知名度は一気に高まりました。
また、晴明の特異な点は、当時の陰陽寮の学問であった「天文道」「暦道」よりも、呪術に力を入れていたことです。説話集『続古事談』には、次のようにあります。
「晴明は術法の者なり。才学は優長ならず」
(学問の才能より術法に優れていた)
彼が陰陽頭(陰陽寮の長官)になっていないことからも、彼が専門職の技官というよりは、呪術に特化したスペシャリストであったことがうかがえます。
江戸時代の陰陽師
今年の大河ドラマ「べらぼう」でも描かれている江戸時代中期、陰陽師たちはどのような存在だったのでしょうか。平安後期から戦国時代に至るまで、陰陽師たちは流派に分かれ、秘伝の学問や術を継承し、政治の裏表で役割を担い続けました。豊臣秀吉の時代には一時的に衰退していたようですが、徳川家康が将軍となる際に「天曹地府祭」という儀式が行われたことで、官人陰陽師の地位は復権します。江戸の都市設計にも陰陽道の思想が大きな影響を及ぼしていたようです。
江戸中期には、それまで使われていた宣明暦(唐代の暦)の計算の不正確さが問題となっていました。日食や月食の日が頻繁にずれるようになったのです。
この改暦事業(貞享暦への改定)を主導したのは、4代将軍・徳川家綱の後見人であった会津藩主・保科正之でした。
中心的に関わったのは、幕府お抱えの囲碁の棋士で、かつ算術・天文の学者であった渋川春海、そして陰陽師のトップであり、陰陽道と神道を習合させた天社神道の創始者・土御門泰福(つちみかど やすとみ)でした。二人は保科正之のもとで天文観測の勉強会を開く間柄だったようです。
幕府に「天文方」という部署が新設され、暦の作成がそこで行われるようになると、土御門家は天文観測の分野から距離を置き、占いやお祓いなどの呪術に注力することになります。
当時、占いは陰陽師の専売特許ではありませんでした。神道、修験道、道教などにも占術があり、神官や医師が占い師を兼業したり、独学で易占いをする者もいました。幕府が儒教を重んじたこともあり、儒教の経典とする易占いが大いに発展します。18世紀の随筆『塵塚談』には、江戸の街に「どこの町にも占い師がいる」と記されており、占いが人々の生活に浸透していたことがわかります。
おわりに:現代に息づく神秘の力
現代社会に生きる私たちも、意識してみると占いは身近に存在しています。朝の情報番組などでは、毎朝の星占い、好きな色を選ぶ「おみくじ」、ラッキーカラーやラッキーフードなどが放送されていますよね。科学的な根拠に基づく天気予報でさえ、古代の人間が空を見て雲や風の動きを読んだ行為と、根底では通じるものがあるかもしれません。
私たちは歴史から何事も盲信せず、自ら考えることの重要性を学んでいます。だからこそ、占いを生活に取り入れながらも、その情報と自らの判断のバランスを大切にしているのでしょう。自然の力や宇宙の理を畏敬し、そこに法則を見出そうとする心は、現代を生きる私たちにも、古代から脈々と受け継がれているのかもしれません。
【参考文献】
- 加門七海『陰陽師の日本史』(宝島社、2024年)
- 中島和歌子『陰陽師の平安時代』(吉川弘文館、2024年)
- 川合章子『陰陽師の解剖図鑑』(株式会社エクスナレッジ、2022年)
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