大河ドラマ「べらぼう」江戸っ子意識の形成と「通」と吉原
- 2025/02/03
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大河ドラマ「べらぼう」第5回は「蔦に唐丸因果の蔓」。
蔦屋重三郎が住む江戸はもとを辿れば、殆ど何もない原野であったとされます。また入江もあり、そこを埋め立てなどで造成していきました。江戸は「人工都市」だった訳ですが、当初は文化的な面においても、上方に依存していたとされます。書物や薬品・酒や調味料などまで上方からの移入に頼っていたというのです。そうしたこともあり、当初、江戸に住む人々は上方に対し、劣等感を抱えていたと言われています。
ところが江戸開府から百年ほどが経ち、多くの人々が江戸に流入し、経済が上向き、流通網が整備されてくると、上方に対する劣等感も希薄化していきます。江戸っ子である事を誇る気分(江戸っ子意識)が醸成されてくるのです。そうした中で、江戸で生まれたのが「通」という美的生活意識でした。
通とは「おしゃれなかっこよさ」を表す言葉であり、通な人は「通人」と呼ばれました。服装や持ち物・髪型などの流行を常に意識して、それに対応できることが「通」だったのです。しかしそれだけではなく、人情の機微に通じることも「通」とされ、それが最も問われたのが遊郭(吉原)でした。遊里において客が遊女との愛情の応酬に際して、遅滞なく行動できることは「通」だったのです。
吉原は「通を競う場」であり、流行の装いをした者たちが集まり、文化的な話をする。安永・天明年間(1772〜1789)には「十八大通」と呼ばれた通人を自負する豪商や札差(幕府の旗本や御家人に支給される俸禄米の受取や売却を担う商人)たちが登場してきます。彼らは吉原で金を使い遊びましたが、遊女をはべらして、”はい終わり” ではありません。能狂言や琴・三味線・舞踊・お茶・生花・俳諧などを嗜み、吉原で披露したのです。
「贅沢とおしゃれが凝縮した世界」である吉原において、蔦屋重三郎は出版業を営んでいたのでした。
【主要参考文献】
- 松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
- 鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024年)
- 櫻庭由紀子『蔦屋重三郎と粋な男たち!』(内外出版社、2024年)
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