大河ドラマ「べらぼう」蔦屋重三郎が販売した「吉原細見」とは何か?
- 2025/01/13
大河ドラマ「べらぼう」第2回は「吉原細見 嗚呼御江戸」。
蔦屋重三郎は「志気英邁にして、細節を修めず、人に接するに信を以す」と石川雅望(江戸時代中期の戯作者)による「墓碑銘」で評されています。つまり、物事を成し遂げようとする意気込みや才知に優れており、細々したことは気にせず、人に接する時は信義を重んじるという意味です。出版業者として喜多川歌麿や東洲斎写楽の才能を発掘した重三郎。実業者として事業を成功させ、個性的な作家たちを惹きつけ交流していくには、冒頭に記したような人格が備わっていることが重要だったでしょう。
重三郎がどのような経緯で出版業と関係を持つようになったかは分かりませんが、安永2年(1773)、重三郎は新吉原大門口五十間道に書店を構えることになります。初期の仕事は、鱗形屋から毎年発行される「吉原細見」の小売でした。鱗形屋(孫兵衛)は、江戸の地本(江戸で刊行された洒落本・人情本・草双紙など)問屋の老舗です。江戸時代初期に創業されました。鱗形屋は黄表紙(黄色い表紙の絵本)や評判記、「吉原細見」ほか様々な書物を出版しています。
ちなみに「吉原細見」とは簡単に言えば、吉原遊廓遊びのための総合情報誌です。吉原の妓楼(芸妓や遊女を置いて客に遊興させることを業とする店)や揚屋(高級な遊女を呼んで遊興した店)、茶屋(揚屋より格が低い芸者や遊女を呼んで遊ばせた店)や遊女の名が絵入りで記載されていました。
一説によると「吉原細見」で最も古いものは貞享年間(1684〜1688)に刊行されたものと言われます。以降、「吉原細見」を刊行する版元は徐々に増えていきますが、元文3年(1738)からは鱗形屋と山本という版元が春秋の2回ずつ刊行するようになるのです。そして宝暦8年(1758)を最後に山本は「吉原細見」の刊行から手を引きます。つまり「吉原細見」刊行は鱗形屋の単独事業となったのでした。
重三郎が老舗で大手の鱗形屋とどのようにして知り合い「吉原細見」の小売を担うようになったかは分かっていません。しかし重三郎が大手版元と結び付くことに成功したことは、彼の後の人生に大きな影響を与えることになります。
【主要参考文献】
- 松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
- 鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024年)
- 櫻庭由紀子『蔦屋重三郎と粋な男たち!』(内外出版社、2024年)
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