大河ドラマ「べらぼう」 吉原の遊女たちを「苦界の籠の鳥」とした「地獄の門」とは?
- 2025/05/19

大河ドラマ「べらぼう」第19回は「鱗の置き土産」。ドラマでは吉原の遊女たちの悲哀が描かれることも多いですが、遊女らは様々なもので縛られていました。年季や金により縛られていたのは勿論ですが、吉原の外に出ることも禁じられていたのです(吉原の大門の外に出ることを禁止されていた)。逃亡や駆け落ちを防ぐのが目的でした。遊女たちは、まさに苦界の籠の鳥と言えるでしょう。
廓の出入り口(大門)は吉原は1つしかありません(京都の島原は2つありました)。門の警備にしても地域によって厳しいところとそうでないところもあったのです。吉原は江戸(つまり幕府のお膝元)にありましたので、特に警備が厳しかったと言われています。謀反人など不逞の輩が入り込むことを警戒したのです。
当初、大門口の番人は「都合七人」で2人づつ昼夜交代で勤めることとなっていました。しかしそれでは不十分、人数が少ないということで(人数少にて不取締)、「都合十二人」、四人づつ昼夜交代で警備せよということになりました。大門は木造で堅牢な屋根が付いていました。大門は夜明けに開き、夜の12時に閉じられたのです。
しかし、どうしても深夜に大門を通らなければということもあります。その際には左右にある袖門を通ったのでした。門番所は左の袖脇にありました。そこからは門の内と外がよく見えたそうです。門外には高札が立っていて、そこには
- 「遊女の類を隠し置くべからず。もし違反したら、その所の名主・五人組・地主に至るまで曲事である」
- 「医師の他は何者によらず、乗り物は一切無用である」
- 「槍や長刀を門内に持ち込むことは固く禁じている」
などと書かれていました。これらは吉原外の人々への掲示であります。
吉原遊廓の女たちが門を出入りするには「切手」(廓内の月番の名主が発行)が必要でした。遊女が病気で外に出る(医師のもとに運ばれる)ことがありましたが、その場合は殆どが重病人であって悲劇的な最期を迎えることが多かったと言われています。
【主要参考・引用文献一覧】
- 小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978年)
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