断食の苦しみに耐え、即身仏になった僧侶たち

 皆さんは即身仏(そくしんぶつ)をご存じですか? 即身仏とは修行の一環として入定(にゅうじょう)した僧侶のミイラのことで、日本には17体ほど現存しています。実際ご覧になった方もいるかもしれませんね。

 今回は断食の苦しみに耐えて即身仏となった僧侶たちの紹介と共に、中世日本で流布した、即身成仏思想の核心を紐解いていきたいと思います。

即身仏の歴史となり方

 即身仏(入定ミイラ)は日本各地に17体存在します。そのうち、日本最古と最後のものを含む4体が新潟にあり、前者は西生寺の弘智上人(弘智法印)、後者は観音寺の佛海上人(仏海上人)です。

弘智法印のミイラの図(『北越雪譜 2編 巻4』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
弘智法印のミイラの図(『北越雪譜 2編 巻4』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 彼等は「僧は死なず、弥勒菩薩降臨の時まで衆生救済を祈り、永遠の瞑想に入る」とする、即身成仏思想の信者でした。「入定」とは本来は座禅による精神統一を図る修行のことですが、ここでは即身仏になる下準備をさします。

 日本に即身成仏思想を伝えたのは真言宗の宗祖・大師空海と語り継がれています。空海は日本最古の即身仏とも言われ、承和2年(835)に入滅しました。

 遣唐使として唐に渡った空海は、そこで仏教への理解を深め、肉身仏と呼ばれる即身仏の神秘に触れます。以降は宗派を問わず、様々な僧侶が土中入定を経て、即身仏となってきました。

 大前提として日本の多湿な気候はミイラ作りに適しません。故にエジプトの王族のように死体の加工に頼らず、僧侶たち自ら準備を進めていました。

 即身仏になる者は、まず木食修行を行い、穀断ちに体を慣らしていきます。木食修行とは肉や魚を食べるのをやめ、木の実や草のみを食べること。これは単なる苦行にとどまらず、皮下脂肪を極限まで落とし、体内の水分を蒸発させるのが狙いでした。その間も読経や瞑想に取り組み、集中力を高めていきます。

 極端な例だと漆の茶を飲んで嘔吐や下痢を促し、砒素を飲んで腐敗のもととなる大腸菌を殺菌したとも言われています。他、山籠もりや滝行も日課に含まれました。

 荒行に耐えた僧侶たちは最後の仕上げとして、深さ約3メートルの入定塚に収められた石室に籠もります。石室内では坐禅を組んで鉦を鳴らし、ひたすら読経を続けます。空気穴として竹筒を通すこともありましたが、もちろん断食は継続するので、遠からず餓死する運命は免れません。それから3年3ヶ月後に掘り起こされ、ミイラになっていたら成功です。

 3年後に掘り出すのは大陸伝来のミイラの制作方法でした。されど必ずしも形式は決まっておらず、山形県の宗海上人は身体を土に埋め、首から上だけを外に出し、入定したと伝えられていました。僧を埋めたのちも数年間お経や鉦の音が聞こえ続けたとする伝説は、日本各地に残っています。

日本最古の即身仏・弘法大師空海の伝説

 日本最古の即身仏として残っているのは弘智上人の遺体ですが、弘法大師・空海こそが最も古い即身仏と唱える人もいます。

 空海は真言密教の開祖。日本で最も有名な僧と言っても過言ではなく、教科書には必ず名前と功績が載っています。死者を弔い成仏させる、「供養」の概念を日本にもたらしたのも空海でした。

 若き空海が高知県の室戸岬にて、虚空蔵求聞持法と呼ばれる修行に取り組んでいた時のこと。

 これは100日間でお経を100万回唱える修行であり、脱落者が大勢出たのですが、半ば死にかけながらやり遂げたところ、それを寿ぐかのように輝く星が口に飛び込んできたのでした。

 空海の法力の凄まじさを物語る伝説は、全国津々浦々に偏在しています。その数なんと300本以上、寺社の縁起となったものも少なくありません。中でも有名なのが愛媛県松山市の衛門三郎物語です。

昔々、伊予の国荏原の庄屋に衛門三郎がいました。三郎は極悪非道な男で、百姓を虐げ、旅人の財を奪い私腹を肥やしていました。

 ある日のこと、そんな三郎のもとを托鉢僧が訪ねてきます。三郎は「乞食坊主にやる金などない」と追い返すものの、懲りずに毎日やってくるので激高し、遂には竹箒で托鉢を叩き割ってしまいました。すると托鉢は8個の欠片に割れ、三郎の8人の子たちも次々死んでしまいます。この托鉢僧こそ空海だったのです。

 のちに三郎は托鉢僧の正体に気付いて深く悔やみ、空海との再会を期して遍路の旅に出たものの、志半ばで病に倒れてしまいます。臨終の際、三郎の傍らに現れた空海は彼の手に道端の石を握らせました。

 翌年、伊予の領主・河野家に男児が産まれます。その子は左手を固く握りしめたまま、頑なに開こうとしません。3年後……男児が南方に手を合わせ、「南無大師遍照金剛」と唱えた拍子に拳がほどけ、「衛門三郎」と彫られた石が転がり落ちました。男児は三郎の生まれ変わりだったのです。

杖杉庵(徳島県名西郡神山町)の境内にある、弘法大師にひざまづいて謝罪する衛門三郎の像
杖杉庵(徳島県名西郡神山町)の境内にある、弘法大師にひざまづいて謝罪する衛門三郎の像

 その他にも、旅の途上で行き会った病気の母子が休める洞穴を開いたり、落雷で立ち枯れた杉に飯盛りの杓子を突き刺し、立派な千年杉に甦らせた話が伝わっています。

 錫杖を大地に突き刺し、霊水や温泉を湧かせる話も定番。静岡県の夜啼き石の逸話は、山賊に妊婦が殺されたのち、岩の上で赤子が泣き続ける怪事が発端でした。たまたま通りかかった空海が哀れんで祈祷したところ親子の霊は慰められ、夜啼き石は子授けの御利益を得たと結ばれます。

衆生救済を願って 生入定を果たした高僧列伝

 昔の人々は高僧の遺体は腐らないと信じていました。平安時代に入滅した僧侶の中には、遺体が長期間腐敗せずに生前の姿を保っていた、と語られる事例が存在します。『大伝法院本願聖人御伝』曰く、康治2年(1144)、覚鑁(かくばん、1095~1144)は、結跏趺坐して入滅したのち1か月も体温を保ち続け、髪も黒々生えていたそうです。

 嘉保3年(1096)、維範(ゆいはん、1011~96年)は高野山の西に向かい、妙観察智の定印を結んで、阿弥陀如来の法号を唱えながら入滅しました。その死に顔は大変安らかで、5日後に廟室に移した時も定印は解けなかったと言います。

 特殊な例として挙げたいのが上杉謙信。晩年に真言宗の僧として灌頂を受けた彼は、「死後は即身仏となり、春日山城を守護する」と宣言します。その遺言は一族の者たちによって守られ、謙信の骸に甲冑を着せ、春日山城内に建てた不識院のお堂に安置しました。

 即身仏の祖、空海にも数々の逸話が残っています。空海は入滅後も生きており、高野山の奥の院に1200年間住み続けているというのがそれ。今でも世話係の維那(いな)の手で1日2回食事が運ばれており、この儀式を「生身供」と称します。

 献立は昔ながらの精進料理が主ですが、パスタやシチューなど今風の洋食も含まれているのだとか。意外とグルメですね、空海。

 最も新しい即身仏は明治26年(1903)入滅の佛海上人(1828~1903)。16歳で出家後は数々の荒行をこなす傍ら、寺社仏閣の再興や貧民救済に努め、新潟県知事から7回も表彰されています。佛海上人は色々な不思議な力を備えていたとされ、人の顔を見るだけで心が読めてしまうため俯いて歩いていた、午後の客人を朝に予知したと伝えられています。

佛海上人の肖像(イラスト)
佛海上人の肖像(イラスト)

おわりに

 以上、日本における即身仏の成り立ちと即身仏になった高僧たちの紹介でした。土中に生き埋めにされるのはぞっとしませんが、そうまでして衆生救済を願った、古の僧侶の崇高な志には頭が上がりません。

 佛海上人の享年は76歳、今から僅か122年前の出来事……江戸時代に廃れたかと思いきや、意外と最近まで続いていた事実に驚愕しました。


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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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