源義経を平家打倒に導いた僧の正体とは? 亡父を継ぐ源氏への忠誠

 源義経が平家打倒を決意したのは、鞍馬寺の稚児をしていた少年時代に出生の秘密を知ったためです。あくまでも物語『義経記』での話ですが……。

 それを伝えた僧侶がいて、その正体は鎌田正近(かまた・まさちか)という武士。義経の父・源義朝に最後まで従った側近武将・鎌田正清の子息です。この鎌田正近、確かな史料には出てこないので実在していたかどうかも怪しいのですが、義経の前半生を語る上では欠かせない人物です。

 『義経記』に書かれた鎌田正近の姿や、そのほかの軍記物に登場する兄弟たちについて紹介します。

僧侶となって鞍馬に侵入、義経に接近

 京・四条室町のお堂に住む僧侶がいて、四条聖と呼ばれていました。法名は少進坊。『義経記』の写本によっては、しゃうもん坊とか正門坊ともいいます。その正体は源義朝の乳母子(めのとご)にして副将だった鎌田正清の子・正近です。通称は三郎。

 平治の乱のときは11歳といいますから、源頼朝より2歳下、義経の10歳上となります。21歳のときに出家して各地を歩き、その後、京に帰って四条のお堂で仏道一筋に修行を続けますが、平家の繁栄を見て、復讐心が沸き上がります。

 少進坊こと鎌田正近は、少年時代の義経・牛若丸が稚児をしている鞍馬寺の夏安居(げあんご)に参加します。夏安居は僧侶の夏期集中講座。多くの僧侶が一定期間、同じ場所に集まって修行します。鎌田正近はこの夏安居に参加することでうまく鞍馬寺に潜入したのです。

僧正が谷で特訓を重ねた義経

 人々が寝静まった夜半、鎌田正近は牛若丸のもとに忍び寄ります。寝ている牛若丸の耳元に口を当ててささやきます。

正近:「御曹司は何もご存じないので平家打倒を思い立たれなかったのですか。御曹司は清和天皇の末裔、頭殿(こうのとの、左馬頭・源義朝)のお子です。こういう私は頭殿の乳兄弟・鎌田次郎兵衛(正清)の子でございます。御曹司は、ご一門の源氏の方々があちこちで不遇の身に落ちぶれているのを無念には思いませんか」

 最初、怪しいと思っていた牛若丸も源氏代々の事績を詳しく語る鎌田正近を信じます。その後、義経は夜半に寺を抜け出し、僧正が谷で天狗を相手に秘密訓練に励みます。草木を平家一門に見立てなで切りにし、2本の大木を平清盛、重盛と名付けて太刀で切り付けるといった剣術訓練を通じて平家打倒の意思を固めていきます。

 牛若丸は遮那王(しゃなおう)と名を変え、16歳のとき、金売り吉次に連れられて鞍馬寺を脱出。奥州を目指します。道中、自ら元服し、義経と名乗ります。

京潜伏の義経脱出 正近は逮捕、斬首

 出生の秘密を知り、平家打倒を決意する場面は義経の生涯を決める重要なポイントです。そこで大きな役割を果たした鎌田正近ですが、その後は目立った活躍はありません。父・鎌田正清が義経の父・源義朝の腹心だったように義経の腹心として活躍するのかと思えば、そうはならないのです。

 義経は奥州・平泉の藤原秀衡のもとでしばらく過ごしたものの再び京に向かいます。そして京潜伏中、陰陽師で文武の達人、鬼一法眼(きいちほうがん)の娘と恋愛し、鬼一法眼が所持する兵法の書を盗み見ます。この間、少進坊こと鎌田正近の四条のお堂に隠れ住むこともありました。僧侶の姿だった鎌田正近は格好の隠れ蓑となって義経の京潜伏を助けたのです。

アジト襲撃 無念の最期

 京潜伏中の義経は武蔵坊弁慶と出会います。一方で義経の隠密活動は平家の知るところとなり、アジトであった四条のお堂は平家の襲撃を受けます。鎌田正近は逮捕されますが、義経はうまく逃げることができ、奥州へ戻ります。

 逮捕された鎌田正近は平家の厳しい尋問を受けますが、自白することなく、ついに六条河原で斬首されました。正近は義経が平家追討戦で活躍する前に落命。義経に平家打倒の意思を覚醒させた大きな役割を果たしながら、義経の活躍を見ることなく、最期を迎えるのです。

「鎌田盛政、光政」兄弟は義経の側近武将

 『義経記』にしか登場しない鎌田正近ですが、軍記物『源平盛衰記』には正近の兄弟が登場します。鎌田盛政と光政です。通称はそれぞれ藤太、藤次。鎌田氏の先祖である名将・藤原秀郷の子孫であることも意識した通称とみることができます。また、鎌田正近の通称が三郎ですから、盛政と光政は正近の兄になるのでしょうか。

 鎌田盛政と光政は義経四天王に数えられる武将として源平合戦で活躍。鎌田盛政は寿永3年(1184)2月、一ノ谷の戦いで討ち死に。鎌田光政は元暦2年(1185)2月、屋島の戦いで平教経と戦い、討ち死にします。

 なお、『平家物語』には鎌田盛政、光政兄弟は出てきません。『源平盛衰記』は、鎌田盛政、光政兄弟と佐藤継信、忠信兄弟を義経四天王としていますが、一般的に知られる義経四天王は、佐藤継信、忠信兄弟と伊勢義盛(伊勢三郎)、武蔵坊弁慶です。また、駿河次郎、片岡常春、常陸坊海尊らを義経四天王に加える場合もあり、いずれも義経の家臣として知られている彼らに比べて鎌田兄弟はあまり注目されることはありません。

『吾妻鏡』には鎌田正清の娘が登場

 鎌田盛政と光政の兄弟も架空の人物だったのでしょうか。『吾妻鏡』に出てくるのは鎌田正清の娘です。源頼朝は父・源義朝の側近中の側近だった鎌田正清の子を探しますが、男子はいなかったというのです。そして、この娘が鎌倉に来て、建久5年(1194)10月25日、源義朝の菩提を弔い、亡き父のために勝長寿院の儀式を主催します。

 そして、頼朝は鎌田正清の娘に尾張・志濃畿(愛知県春日井市)と丹波・田名部(京都府舞鶴市)の地頭職を与えます。

 また、『吾妻鏡』には、治承4年(1180)8月20日の石橋山の戦いで、頼朝に従う軍勢の中に、新藤次俊長という武士がいますが、鎌田正清の子息という説があります。実名は鎌田俊長、藤井俊長とされ、石橋山の戦いの後も活動しています。一方、この新藤次俊長を鎌田正清の一族とは別の氏族とする見方もあります。先ほどの鎌田正清の娘が登場した際の「鎌田正清には男子がいなかった」とする記述と矛盾するからです。

おわりに

 鎌田正清は源義朝が最も信頼した側近武将であり、その子息や親類の中から後継者が頼朝、義経に従い、重く用いられてもいいはずですが、史料からは鎌田正清の後継者の活動は不明です。義経の家臣を頼朝が把握していなかったとも考えにくいので『吾妻鏡』の「男子がいなかった」という記述が正解に近いと思われます。

 一方で、創作性の強い物語に鎌田正清の子息が登場するのもこの時代の面白さです。実在は不確かかもしれませんが、鎌田氏が源氏の重要な家臣だったことを物語や伝説の中に見ることができます。



【主な参考文献】
  • 梶原正昭校注・訳『日本古典文学全集31義経記』(小学館、1971年)
  • 五味文彦『物語の舞台を歩く 義経記』(山川出版社、2005年)
  • 『現代語で読む歴史文学 完訳源平盛衰記』(勉誠出版)
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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