「吉良親貞」吉良の名跡を継ぎ、土佐西部の軍代を務めた元親の弟

吉良親貞のイラスト
吉良親貞のイラスト
 土佐国の在来豪族だった長宗我部氏が、土佐国を統一したのが天正3年(1575)のことです。代々土佐国国司を務めてきた一条氏を四万十川の戦いで破ったのです。この時、大いに働き、活躍したのが「吉良親貞」でした。

 親貞は翌、天正4年(1576)に病死します。長宗我部氏は天正13年(1585)に四国を統一したと考えられていますが、もし親貞が生きていたらその統一は5年も早まったと言われています。

 はたして親貞とはどのような人物だったのでしょうか?今回は「長宗我部元親」の右腕として、土佐国統一に貢献した吉良親貞についてご紹介いたします。

長宗我部国親の二男として誕生

長宗我部氏は一条氏の力を借りて再興

 天文10年(1541)、土佐国長岡郡に勢力を持つ長宗我部国親の二男として長宗我部親貞は誕生しました。

 親貞が誕生した当時は、本拠の岡豊城を取り戻していましたが、かつての祖父の長宗我部兼序の代には、本山氏や吉良氏、山田氏などの有力豪族に攻められ、居城を失っていたのです。

一条氏と土佐の有力豪族「土佐七雄」の分布
一条氏と土佐の有力豪族「土佐七雄」の分布

 この長宗我部家滅亡の危機に対して手を差し伸べてくれたのが、土佐国国司である一条氏でした。一条氏は藤原北家五摂家の名門です。それが土佐国に下向し、国衆をまとめていました。

 一条氏の仲介で父国親は奪われた岡豊城を取り返します。失地回復や軍備増強といったお家再興に国親が没頭していた頃に、親貞は誕生したのです。

 兄には、その後四国統一を成す元親がいました。この元親・親貞兄弟によって長宗我部氏は隆盛を極めることになります。


土佐七雄の筆頭、本山氏との激突

 天文13年(1544)、国親は娘を仇敵である本山氏に嫁がせます。相手は本山氏当主である本山茂宗の嫡男、本山茂辰です。こうして同じ長岡郡の豪族である長宗我部氏と本山氏は姻戚関係となりました。

 茂宗は知勇兼備の強敵であり、国親としても手を結んだ方が得策と考えたのでしょう。そして天文24年(1555)になり、茂宗が亡くなり当主が代替わりすると、長宗我部氏と本山氏の友好関係は崩れていきます。

 永禄3年(1560)、国親は本山氏の支城である長浜城を調略によって陥落させ、主力同士が長浜の地で衝突することになりました。元親と親貞がそろって初陣を果たした「長浜の戦い」です。親貞は20歳でした。数で劣る長宗我部軍でしたが、見事に本山軍を撃退します。

 しかし、同年に国親が病没し、元親が当主の座を受け継ぎました。本山氏攻略は元親、親貞兄弟に託されたのです。


土佐七雄の吉良氏の名跡を継ぐ

吉良駿河守宣直の娘を娶り婿養子となる

 長宗我部氏と本山氏の対立はその後も続き、永禄6年(1563)になってようやく本山氏の拠点である朝倉城を陥落させます。この時、朝倉城だけでなく、吉良城を守っていた本山軍も撤退していきました。そこで吉良城の守備を任されたのが親貞です。

 吾川郡に勢力を持っていた吉良氏は、本山氏や長宗我部氏と並び称された「土佐七雄」の一角です。しかし、本山氏によって滅ぼされてしまっていました。元親は吉良氏の影響力を長宗我部氏に効果的に吸収すべく、親貞に吉良駿河守宣直の娘を娶らせ、吉良氏の婿養子としてその名跡を継がせました。これより親貞は、「吉良親貞」を名乗ることになるのです。

 翌永禄7年(1564)、国親は本山氏によって焼かれた一宮の土佐神社の再興に着手するのですが、この時、親貞は弟で香宗我部氏の名跡を継いでいた親泰と共に諸役を統率し、家臣たちに夫役を課しています。

 また、香美郡前浜村伊都多社には、同年付けで「吉良親貞」と名乗った棟札(建物に取り付けられた建築記念・記録の札)があります。

本山氏を降伏させる

 同年、本山氏は本山城を放棄し、瓜生野城に籠りましたが、当主の茂辰が病没。本山氏の当主の座は親貞の甥にあたる本山貞茂が受け継ぎます。

 貞茂は武勇に優れており、徹底抗戦を続けますが、永禄11年(1568)についに降伏しました。本山氏降伏については、『元親記』によると永禄3年から12年間続いたとあり、元亀2年(1571)という説も有力です。

 元親は武勇に優れる甥の貞茂を気に入り、親茂と改名させ、一門衆に迎い入れました。親茂の二男である本山内記は親貞に預けられ、後に蓮池で知行を得たといいます。

 こうして長宗我部氏は土佐国の最大勢力となっていき、最後の抵抗勢力は、かつて長宗我部氏滅亡を救ってくれた一条氏だけとなったのです。

一条氏との対立

一条氏の没落と土佐七雄である安芸氏滅亡

 土佐国の国司として国衆をまとめてきた一条氏でしたが、姻戚関係にあった伊予国の宇都宮氏と結託し、伊予国守護の河野氏と衝突。河野氏は中国地方で勢力を拡大している毛利氏の援護を受けて、一条氏と宇都宮氏を撃退します。

 これが、一条兼定が五代目当主を務めていた永禄11年(1568)のことでした。一条氏と長宗我部氏は主従関係にありましたが、一条氏は大敗し、長宗我部氏は本山氏を吸収したことで勢力図が大きく変化するのです。

 兼定は娘婿である安芸国虎と共に国親を討とうと画策しますが、安芸氏は逆に長宗我部氏によって永禄12年(1569)に滅ぼされてしまいます。もはや長宗我部氏は完全に一条氏から独立しており、対立は回避できないものになっていたのです。

一条氏の蓮池城攻略

 しかし、一条氏に対して長宗我部氏は大恩があります。親貞は積極的に一条氏攻めを提案しますが、元親は了承しません。『元親記』にはこの時の逸話が記されています。

 一条氏への攻撃を許可しない元親を納得させるために、親貞は一条氏が岡豊城へ攻め込む旨の偽の書状を作成したのです。これによって高岡郡蓮池城への侵攻許可がおります。

 親貞は調略によって、久札城の城主である佐竹信濃守の内応を取りつけ、さらに蓮池城の在番衆も寝返らせて蓮池城を陥落。一条氏側は驚いて敗走しますが、その敵を追撃して戸波城までも陥落させました。親貞の調略の力は、まさに父・国親の手腕を彷彿とさせますね。

 兼定の抗議をうけた元親は謝罪して、親貞との兄弟の縁を切る、と答えていますが、蓮池城はそのまま親貞に預けられ、一条氏と長宗我部氏との友好関係は断たれました。元親としても長宗我部氏を敵視する兼定を黙認するわけにはいかなくなったのでしょう。

 元亀2年(1571)には内応を約束していた佐竹信濃守によって、久札城が簡単に長宗我部側に陥落されています。

※参考:長宗我部元親の戦いと要所マップ。色塗エリアは土佐国。

四万十川の戦いと土佐国統一

 天正2年(1574)には一条氏側でクーデターが起き、家臣たちからの信を失った兼定が妻の実家である豊後国の大友氏のもとに追放されてしまいます。これに乗じて元親は一条氏を掌握、新しい当主となった一条内政に娘を嫁がせ、その後見人となりました。

 しかしそれに対する反発も大きく、元親は危険を回避するために、幡多郡中村城にいた内政を大津城へ移動させ、代わりに親貞が中村城に入り、幡多郡を掌握しました。

 翌天正3年(1575)、兼定が四国へ再上陸し、旧勢力を味方に付けて反撃を開始します。そして四万十川を挟んで東西に陣を構え、長宗我部軍と一条軍が衝突しました。「四万十川の戦い」です。親貞の活躍もあって、一条軍を撃破。こうしてついに長宗我部氏による土佐国統一が成し遂げられました。


おわりに

 『元親記』によると、親貞は土佐国の西側の軍代を任されていたようです。まさに長宗我部氏の中枢を担っていました。

 そして四国統一に向って天正4年(1576)から長宗我部氏は阿波国と伊予国へ侵攻を開始します。親貞は土佐国西部から伊予国へ侵攻しましたが、その矢先の天正5年(1577)に病没しています。

 親貞が病没した後、その子らは元親の後継者争いに巻き込まれて自害、または連座させられ、吉良氏はあっという間に滅びてしまいました。まさに因果応報といえるでしょう。これは、大恩ある一条氏に仇をなしたことへの罰だったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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