吉原のシンボル「花魁道中」を深掘り! 華やかさの裏に隠された歴史を紐解く
- 2025/09/03

NHK大河ドラマ『べらぼう』でも描かれた花魁道中(おいらんどうちゅう)。吉原の遊女の中でも位の高い花魁が、客に呼ばれた時などに、禿(かむろ)や振袖新造(ふりそでしんぞう)といったお供を連れて吉原の中を練り歩く慣習でした。
特に目を引いたのが、高い下駄を履いた花魁が、足を「八」の字に広げて半円を描くようにゆっくりと歩くさま。「八文字(はちもんじ)を踏む」と呼ばれるその独特な歩き方は、吉原を訪れる多くの人の目を釘付けにしたといいます。
この華やかな行事は、どのようにして生まれ、どのような歴史をたどったのでしょうか。
特に目を引いたのが、高い下駄を履いた花魁が、足を「八」の字に広げて半円を描くようにゆっくりと歩くさま。「八文字(はちもんじ)を踏む」と呼ばれるその独特な歩き方は、吉原を訪れる多くの人の目を釘付けにしたといいます。
この華やかな行事は、どのようにして生まれ、どのような歴史をたどったのでしょうか。
花魁道中の由来
「花魁」という呼び名は、江戸時代中期以降の吉原で使われ始めた、位の高い遊女を指す言葉です。「道中」とは旅のことですが、吉原においては、以下のような特定の場面で、花魁が一行を引き連れて歩くことをさしました。・花魁が遊女屋から出て、引手茶屋(ひきてぢゃや)へ向かう時
・正月の松の内に、花魁が主要な茶屋へ挨拶まわりをする時
・春に仲之町へ桜が植えられた時
・新造突出(しんぞうつきだし/新しい遊女のお披露目)の時
中でも、日常的に見られたのが、位の高い遊女が客に呼ばれて引手茶屋へ向かう時の道中です。遊女屋も引手茶屋も吉原の敷地内にあったため、それほど長い距離ではありません。それでも「道中」と呼ばれたのは、吉原が浅草に移転する前の、日本橋にあった「元吉原」での習慣(揚屋制度)が由来しています。
江戸時代初期の元吉原には、太夫(たゆう)や格子(こうし)といった上位の遊女を呼ぶ場合、まず客が揚屋(あげや)へ行き、その座敷に遊女を呼んで遊興するという決まりがありました。これは、当時の身分の高い大名などが遊女屋に直接入ることをはばかられたためといわれています。
元吉原の町は、「江戸町(本柳町)一丁目・二丁目」、「京町(京柳町)一丁目・二丁目」などと町名が付けられ、江戸町一丁目は江戸出身の遊女が中心、京町一丁目は京都六条出身の遊女が中心となっていました。
揚屋は新吉原(浅草)に移転した際に「揚屋町」にまとめられたのですが、元吉原(日本橋)の時には、揚屋は町内に点在していました。このため、遊女が揚屋に向かうには、京町から江戸町へ、あるいはその逆へと移動する必要がありました。この移動を、江戸と京都を結ぶ東海道の旅になぞらえ、「道中」と呼ぶようになったという説があります。
ちなみに新吉原では揚屋制度が衰退し、太夫や格子などの遊女が消えると、揚屋よりも安価に遊女を呼べる引手茶屋が繁盛するようになりました。
花魁道中の華やかな装い
それでは、花魁道中の様子を見てみましょう。
花魁道中は、まず花魁の紋が入った提灯を持った若い者(吉原で働く男衆)が先導します。その後ろに、長柄傘(ながえがさ)を差し掛けられた花魁が続きました。現代のイベントなどで行われる花魁道中では、花魁の歩行を助ける「肩貸し(かたかし)」もいることがあります。
花魁は、結い上げた髪に大振りの簪(かんざし)を10本近く挿し、間着(あいぎ)と呼ばれる小袖へ幅の長い帯を前に結び、打掛(うちかけ。吉原では仕掛/しかけ)を2~3枚ゆったりと羽織るスタイル。着物の裾のふちは、裏布の一部を表へ折り返して綿を厚く入れた裾袘(すそふき)です。
そして、外八文字で歩くと、着物の裾から装飾が施された裾除け(けだし)や長襦袢(ながじゅばん)がちらりと見えました。
足元は「三枚歯下駄(さんまいばげた)」と呼ばれる、高さが5寸から6寸(15~18センチ)もあったという高い下駄です。重い髪飾りと重ね着の着物、そして高い下駄。その華美で豪華な姿の裏には、花魁本人の並々ならぬ苦労があったことでしょう。
花魁の後ろには、花魁の世話をする少女の禿(かむろ/かぶろ)が二人ほど付きます。禿の衣装は、色や模様を花魁と揃えていることが多く、こちらも華やかです。
さらに、上位の遊女として将来を期待された若い振袖新造(ふりそでしんぞう)、遊女の身の回りの世話をする番頭新造(ばんとうしんぞう)、遊女の監督をする遣手(やりて)などが続き、一つの行列となって吉原を練り歩きました。
八文字を踏む、その苦労
花魁道中の際、花魁が特徴的な歩き方をするのは「八文字を踏む」ためです。「八」の字になるように足を広げ、ゆっくりと半円を描きながら進むこの歩き方は、口頭で伝えられ、習得するには2〜3年の稽古が必要だったといいます。八文字には、「外八文字」と「内八文字」の2種類がありました。内股で歩く「内八文字」は京都の遊廓・島原から伝わったものとされ、おしとやかな印象です。一方、「外八文字」は、足の爪先を外側へ向けて逆さの「八」の字を作り、外股で歩く闊達な歩き方です。これは承応~明暦の頃(1652~1657年頃)に吉原で勝山(かつやま)という太夫が始めたとされ、当時の客を魅了したといいます。
花魁は、高さが15センチ以上もある下駄を素足で履いていました。雪の降る日にも素足で八文字を踏んでいたのかと思うと、その大変さは想像に難くありません。当時の一般の町人でも冬に素足で外出することは珍しくなかったようですが、やはり冬の寒さを感じてしまいます。
元吉原も新吉原も湿地帯を埋め立てて作られた町だったので、雨の日や雪の日には、地面がぬかるみます。元吉原の頃は若い者が花魁を背負って移動することもありましたが、これは後に廃れたといいます。また、一時期は駕籠に乗ることもありましたが、花魁が人目に触れなくなることから避けられるようになりました。
花魁道中は、雨天時には行わなかったとする書もありますが、逆に雨天時には傘をさすという説もあります。雨や雪の中で傘をさす花魁と禿が描かれた浮世絵もあるため、明確に決まってはいなかったのかもしれません。

花魁道中の終焉
江戸時代中期から後期にかけて盛んに行われていた花魁道中ですが、明治になると、時代の変革とともにその機会を失っていきます。明治5年(1872)、遊女の人身売買を規制する「芸娼妓解放令(げいしょうぎかいほうれい)」が公布、次のように記されました。「娼妓芸妓等、年季奉公人一切解放致すべく、右に付ての貸借訴訟、総て取上ざる事」
これにより、遊女を縛っていた借金(年季奉公)は解消され、遊女は形式上、自由の身となりました。しかし、行き場がなく妓楼に留まる遊女もいました。借金に縛られた哀れな存在ではなく、自らの意思で遊女の立場を選んだと見なされるようになると、世間の目は厳しくなっていきます。こうした状況下で、花魁道中は大正2年(1913)を最後に終わりを告げました。
その後も吉原は規模を縮小しつつ営業を続けましたが、昭和32年(1957)に売春防止法が施行され、300年以上続いた吉原の歴史に幕が下ろされました。しかし、現代でもお祭りやイベントの際に花魁道中が催されることもあります。また、歌舞伎の演目『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』でも花魁道中が描かれ、当時の華やかな吉原を今に伝えています。
おわりに
絢爛豪華に吉原の夜を飾った花魁道中。その華やかな光景の裏には、年季奉公という名の牢獄に囚われた花魁や遊女たちの、想像を絶する苦労があったことを忘れてはなりません。大河『べらぼう』でも、彼女たちの厳しい現実が描かれていますが、こうした部分も忘れずに後世へ受け継いでいけたらと思います。
【参考文献】
- 東京都藝術大学大学美術館『大吉原展 図録』(東京新聞、テレビ朝日、2024年)
- 室伏信助、他『日本古典風俗辞典』(KADOKAWA、2022年)
- 今戸榮一(編集)『目で見る日本風俗誌 7 遊女の世界』(NHK出版、1985年)
- 喜田川守貞 著、室松岩雄 編『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』(榎本書房、1927年)
- 武藤禎夫、岡雅彦 編『噺本大系 第1巻』(東京堂出版、1975年)
- 石井良助 編『江戸町方の制度』(人物往来社、1968年)
- 小林栄『吉原下町談話』(綜合編集社、1968年)
- 中村芝鶴『遊廓の世界 : 新吉原の想い出』(評論社、1976年)
- 三田村鳶魚『吉原に就ての話 (江戸ばなし ; 第2冊)』(青蛙房、1956年)
- 太田記念美術館note 「遊郭の花魁道中を見物してみた」
- 歌舞伎演目案内「助六由縁江戸桜」
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