徳川家康の妻(正室と側室)とその子供ら総勢36名のプロフィール一挙まとめ。家康の妻選びの基準とは?

徳川家康には正室・継室のほかにも、16~20人を超える側室をかかえたとされています。この記事では家康の妻子の各人物の略歴をまとめてみました。

いよいよ家康主役の大河ドラマ「どうする家康」もスタートしましたので、家康の妻子の把握にとお役に立てましたら幸いでございます。さっそく総勢36名もの人物略歴を一挙にみていきましょう!

家康の妻子の略系図

家康が選んだ側室の多くは実は身分の低い者たちであり、特に寵愛したのは名もない家柄の娘たちでした。名家の出身者ばかりを側室にしていた豊臣秀吉とは対照的であり、家康は出自には全くこだわらなかったようですね。

秀吉の場合、自分の身分が低かったからなのか、名家にあこがれたのであり、家康の場合は正室・築山殿との関係が良くなかったからなのか、名門出の娘に嫌気がさしていたのかもしれません。

補足資料として、以下に今回紹介する家康の妻子(総勢36名)に関する略系図を作成しましたので、事前にご確認いただけると、より読みやすくなるかと思います。

家康の略系図(妻子)
家康の略系図(妻子)

さて、次項から家康の妻子を一挙にまとめて紹介(事典風です)していきますね。

家康の妻 20名の略歴

築山殿(つきやまどの、?-1579年)

家康の正室。今川家の血脈を受け継ぎ、家康の人質時代にその正室となる。のちに武田家との内通疑惑があがり、信長から死罪を命じられ、嫡男信康とともに生涯の幕を閉じた。


朝日姫(あさひひめ、1543-90年)

家康の継室。秀吉の妹にあたる。もともと結婚していたが、秀吉が家康を懐柔する際に強制離縁させられ、無理矢理に家康に嫁がれた。かなり強引な形での政略結婚の犠牲者である。なお、家康との間に子はいない。

小督局(こごうのつぼね、1548-1615年)

家康の最初の側室とされ、家康二男・結城秀康の生母として知られる。はじめは築山殿の侍女であったが、風呂場で家康の手付となって秀康が産まれたという。

築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられ、これをたまたま見つけた家康の家臣・本多重次に保護され、秀康を出産したという逸話も伝わっている。また、秀康双子説もあり、当時双子は忌み嫌われていたことから母子ともに家康に疎まれたという。

西郡局(にしごおりのつぼね、?-1606年))

今川家臣・鵜殿長持の娘という。永禄7年(1564)頃に家康の側室となり、翌年には家康の次女・督姫を産んでいる。


西郷局(さいごうのつぼね、1552?-89年)

遠州の名もない家柄の娘。通称はお愛の方。はじめは下級武士に嫁いで一男一女を設けたが、夫が戦死し、のちに家康に見初められて側室となった。 家康最愛の側室といわれ、江戸幕府2代将軍・秀忠と松平忠吉の母でもある。美人で温和な人柄といい、家康のほか、周囲の家臣や侍女らにも信頼されて好かれていたという。

阿茶局(あちゃのつぼね、1555-1637年)

武田家臣・飯田氏の娘。19歳のときに今川家臣の神尾忠重に嫁いで2人の男児も設けたが、その後は夫と死別。天正7年(1579)に家康に召し出された。長男の神尾守世はのちに徳川秀忠に近侍している。

家康との間に子はなかったが、慶長19年(1614)の大阪冬の陣の際には和睦交渉の使者を務めるなど、家康から諸事を任されることも多かったようである。家康死後は雲光院と号し、また、元和6年(1620)に秀忠の息女・和子入内の際には母儀代を務め、従一位に叙せられた。

下山殿(しもやまどの、1564?-91年)

武田家臣・秋山氏の娘というが、武田信玄の娘の説もある。穴山梅雪の養女となり、はじめは穴山梅雪の弟・信邦に嫁いだが、武田滅亡に家康の側室になったという。家康との間に五男・信吉を設けている。

お松(おまつ、?-?年)

法名を「法光院」という。天正10年(1582)に家康の落胤とされる松平民部を産んだというが定かではない。

茶阿局(さあのつぼね、?-1621年)

遠江の百姓の娘といい、はじめ遠州金谷宿の鋳物職人と結婚して一女を産んだが、彼女に言い寄る土地の代官に夫が殺害されたという。このとき茶阿局は路上で鷹狩に来ていた家康に仇討ちを直訴したことがきっかけで、家康に召しだされたという。

家康に寵愛され、六男忠輝と七男松千代を産んでいる。また、四女松姫の生母という説もある。聡明な彼女は家康に深く信頼されて奥向きのことも任されたという。

お竹(おたけ、?-1637年)

武田家臣・市川の娘とされるが、定かではなく、ほかに武田信玄や穴山信君、秋山虎康の娘という説なども存在する。また、家康の三女・振姫の生母とされるが、これも定かではない。

お仙(おせん、?-1619年)

武田家臣・宮崎泰景の娘。天正年間(1573~93)に家康に召し出されて側室になったという。

お牟須(おむす、?-1592年)

武田家臣・三井氏の娘。武田が滅亡した天正10年(1582)に家康の側室となったとみられている。天正20年(1592)の文禄の役のとき、家康にお供して肥前国の名護屋で出産したが、難産のために子とともに亡くなった。

お亀(おかめ、1573-1642年)

山城国出身で志水氏の娘という。後家であったが、家康に見初められて側室となる。家康との間に2人の息子・仙千代と義直を設けている。仙千代は夭折し、義直は徳川御三家のひとつ尾張徳川の始祖となった。

普照院(ふしょういん、?-1617年)

北条氏の旧臣の娘といい、家康との間に四女・松姫を設けたというが定かではない。家康が亡くなった翌年に駿府城で死去したという。

お梶(おかじ、1578-1642年)

出自は定かでないが、太田康資の娘、もしくは養女とする説などがある。家康が江戸へ移封となった天正18年(1590)、13歳のころに家康に仕えたとされている。家康の意向で一度は松平正綱に嫁いだが、家康の元に戻り、家康の末子・市姫を産んでいる。 家康死後は落飾して英勝院と称した。

お万(おまん、1580-1653年)

正木頼忠の娘。三島の宿で女中をしていた16~17歳のころ、入浴中の家康に見初められて側室になったという。家康との間に頼宣と頼房の2人の息子を設け、彼らはのちに徳川御三家の始祖となった。


お奈津(おなつ、1581-1660年)

伊勢の浪人・長谷川氏の娘という。兄が家康に仕えていたことから慶長2年(1597)に17歳で召し出されて、当時56歳の家康の側室になったといい、2人の間に子はなかったという。家康死後は仏門に入って「清雲院」と号した。

お梅(おうめ、1586-1647年)

豊臣一門衆である青木一矩の娘。家康の外祖母・於富の方(華陽院)が叔母にあたる関係から、慶長5年(1600)に15歳で奥勤めとなって当時59歳の家康の側室になったという。のちに本多正純の継室となった。

お六(おろく、1597-1625年)

今川家臣・黒田氏の娘。元々はお梶の小間使い(=身の回りの雑用係)であったが、家康が目をつけて側室とした。生誕年で計算すると家康との年の差は55もあるため、2人の間に子はなかったと思われる。家康死後には出家して「養儼院」と号し、のちに喜連川義親の継室になったという。

信寿院(しんじゅいん、?-?年)

信寿院とは法名で、出家前は「富子」という名だった。それ以外のことは不明。

家康の子 16名の略歴

松平信康(のぶやす、1559-79年)

家康の嫡男で母は正室の築山殿。家康の独立時には駿府にいて母と取り残されたが、まもなく救出されて岡崎城に入る。永禄6年(1563)には5歳で信長の娘・徳姫と婚約し、やがて元服して岡崎城を任せられる。

徳姫との間には2女を儲けている。夫婦仲はよかったというが、やがて母・築山殿と徳姫が不和となると、最期は母・築山殿とともに謀反の嫌疑をかけられ、信長から死罪を命じられて自害した。


亀姫【奥平信昌室】(かめひめ、1560-1625年)

家康の長女で母は正室の築山殿。誕生した永禄3年(1560)には桶狭間の戦いが勃発し、その後まもなく家康が今川から独立したことで母・築山殿らとともに駿府に取り残された亀姫は一時的に身の危険にさらされたが、のちに人質交換で家康の居城・岡崎城へ迎えられている。

天正4年(1576)、家康は長篠の戦いで功をあげた旧武田家臣の奥平信昌に亀姫を娶らせた。亀姫は信昌との間に4人の男児(家昌・家治・忠政・忠明)と1女を儲けている。信昌の死後は剃髪して盛徳院と号した。


結城秀康(ひでやす、1574-1607年)

家康の二男で母は小督局。産まれてすぐに家康との対面は果たせず、2~3歳になって家康長男・信康の計らいでようやく対面できたという。しかも、家康は秀康が自分の子かどうかを疑っていて、しばらく認知しなかったともいう。

長男の信康が天正7年(1579)に信長の命で切腹となり、徳川の後継者の立場になるはずであったが、
小牧・長久手の戦い(1584)での和睦の際、家康によって秀吉のもとに人質として送られ、その養子とされた。

その後秀吉に実子・鶴松が誕生すると、結城氏に養子にだされて家督を継いでいる。家康が天下をとった後は次期将軍を三男の秀忠としており、秀康の二男としての立場はないがしろにされたのである。


督姫【北条氏直・池田輝政室】(とくひめ、1565-1615年)

家康の二女で母は西郡局。天正10年(1582)信長の死の直後に勃発した武田旧領の争奪戦で家康が北条氏と和睦した条件で北条氏直と婚約し、翌年に19歳で北条氏直の正室となった。氏直との間には2女を設けたが、北条滅亡の翌年に氏直が病没すると、家康の元に戻った。文禄3年(1594)には秀吉の仲介で池田輝政の継室となり、5人の男子を産んでいる。

徳川秀忠(ひでただ、1579-1632年)

家康の三男で母はお愛の方。天正18年(1590)に元服して織田信雄の長女と婚約し、同年の小田原征伐のときに初陣を果たすが、翌年には婚約者と死別。のちの文禄4年(1595)に浅井三姉妹の三女・お江と再婚する。

慶長5年(1600)の関ヶ原では真田昌幸との戦いで翻弄され、決戦に間に合わずに家康に叱責された。しかし、同年には家康が重臣らを集めて後継者決めを相談し、このとき既に後継者は秀忠に決定したといい、慶長10年(1605)に将軍職を譲られて2代目将軍となった。

大坂の陣(1614~15)で総大将を務めて豊臣家を滅ぼした後は、「禁中並公家諸法度」や「武家諸法度(元和令)」などの法令を制定した。家康死後は将軍親政を開始し、大名統制を強化して多くの外様大名を改易するなどしている。嫡男・家光に将軍職を譲った後も大御所として二元政治を行い、紫衣事件(1629)では朝廷・寺社に対する統制を徹底し、武家政権の基礎を確立させた。


松平忠吉(ただよし、1580-1607年)

家康の四男で母はお愛の方。東条松平家の松平家忠の病死にともない、家督を継ぐ。文禄元年(1592)には家康の意向で井伊直政の長女を娶り、徳川家中の結束を強めている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では直政を後見として初陣を果たしているが、敗戦が確定した西軍・島津義弘の隊を直政とともに追撃した際、待ち受けていた敵に狙撃されて負傷し、これが原因でのちに亡くなった。

武田信吉(のぶよし、1583-1603年)

家康の五男で母は下山殿。武田氏の名跡を継承し、武田信吉と名乗る。天正18年(1590)には秀吉の命により、木下勝俊の娘と結婚。しかし、病弱であったことから21歳で亡くなった。

松平忠輝(ただてる、1592-1683年)

家康の六男、母は茶阿局。秀吉死後の慶長4年(1599)に長沢松平氏の家督を継ぐとともに、家康の婚姻政策によって伊達政宗の長女・五郎八姫と婚約している。家康には疎まれていたといい、慶長15年(1610)には越後高田藩主として70万余石を与えられるも、家康死後は兄の秀忠から改易を命じられて伊勢国に配流。92歳という長寿であった。

松平松千代(まつちよ、1594-99年)

家康の七男、母は茶阿局。生後まもなく長沢松平家を継いで深谷藩主となったが、6歳で夭折した。
兄の忠輝とは双子だったとする説もある。

振姫【蒲生秀行・浅野長晟室】(ふりひめ、1580-1617年)

家康の三女で母はお竹。慶長3年(1598)に秀吉の命で蒲生秀行に嫁がれ、蒲生忠郷・忠知と依姫を産むが、夫の秀行は慶長17年(1612)に亡くなっている。元和2年(1616)に家康の命で蒲生家を去り、和歌山藩主の浅野長晟に嫁がれた。

平岩仙千代(せんちよ、1595-1600年)

家康の八男、母はお亀。家康の譜代家臣・平岩親吉の養嗣子になるも、6歳で夭折した。

徳川義直(よしなお、1601-1650年)

家康の九男、母はお亀。慶長19年(1614)の大坂冬の陣のとき、14歳で初陣を果たす。家康死後に尾張へ入国し、徳川御三家の一つである尾張徳川家の始祖となった。

松姫(まつひめ、?-?年)

家康の四女、母は普照院。茶阿局が母という説もある。夭折した。

市姫(いちひめ、1607-10年)

家康の五女、母はお梶。慶長12年(1607)に誕生してまもなく、伊達政宗の嫡男・忠宗と婚約したが、3歳で夭折した。

徳川頼宣(よりのぶ、1602-1671年)

家康の十男、母はお万。慶長19年(1614)の大坂冬の陣のとき、13歳で初陣を果たす。家康死後はかねてから婚約していた加藤清正の五女・八十姫と結婚し、元和5年(1619)に紀州藩主(和歌山藩主)となり、徳川御三家の一つである紀州徳川家の始祖となった。

徳川頼房(よりふさ、1603-1661年)

家康の十一男、母はお万。徳川御三家の一つである水戸徳川家の始祖となった。

おわりに

いかがだったでしょうか。中には全く知らない人物もかなりいたのではないでしょうか?

女性の多くが史料に乏しく、事績もほとんどないのでプロフィールが薄いものが多いですが、そこは悪しからず。史料がある人物については今後機会があれば詳細な記事を用意していきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。


【主な参考文献】
  • 北島正元編『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
  • 新人物往来社『徳川家康読本』(新人物往来社、1992年)
  • 小和田哲男『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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