化け猫の復讐劇、肥前佐賀藩主を狂わせた「鍋島化け猫騒動」

『百種怪談妖物双六』の化け猫(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『百種怪談妖物双六』の化け猫(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 今から数百年前の江戸時代、世は妖怪がはびこり、さまざまな怪談奇談に満ちていました。その中でも特に注目を集めたのが、肥前佐賀藩で起きた人呼んで「鍋島の化け猫騒動」です。有馬、岡崎の猫騒動と並んで三大猫騒動に数えられるこの事件は、佐賀藩内にとどまらず遠く江戸まで波及し、当時の世間を大いに震撼させました。

 今回は、歌舞伎の題材にもなり、人々の想像力をかき立てた鍋島の化け猫騒動について、その恐るべき経緯と結末を解説していきます。

発端:囲碁を巡るいざこざから藩主が盲目の家来を斬殺

 事件は、肥前国佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂の時代に起こりました。

 光茂はたいへんな囲碁狂いで知られ、毎晩のように家臣を城に呼びつけ、夜遅くまで碁の相手をさせていました。その一人に招かれたのが、盲目の家臣、龍造寺又七郎です。老母・お政は、目が見えない息子が殿様に召し出されたことを喜び、涙を流しました。

※参考:戦国時代に囲碁をする人々を描いたもの(『酒飯論』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
※参考:戦国時代に囲碁をする人々を描いたもの(『酒飯論』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 囲碁の達人として名高かった又七郎は、光茂と互角の勝負を繰り広げ、勝敗は深夜まで持ち越されます。流れを変えたのは、追い詰められた光茂が発した「待った」の一言でした。しかし、又七郎が主君の懇願を拒んだことから、「待った」「待たない」の押し問答は次第にエスカレート。ついに逆上した光茂は、又七郎を斬り殺してしまいます。目が見えない又七郎に、逃げる術はありませんでした。

 実は、光茂と又七郎、つまり鍋島氏と龍造寺氏の間には、以前から根深い確執がありました。

 戦国時代、龍造寺氏は肥前東部を支配する有力大名でしたが、天正12年(1584)に当主・龍造寺隆信が戦死。その後、生き残った龍造寺重臣たちは、隆信の義兄である鍋島直茂を支持します。

 鍋島氏は、隆信の息子・政家を病気を理由に隠居させ、直茂・勝茂の父子が豊臣秀吉や徳川家康から藩主のお墨付きを得て、下剋上を成し遂げました。端的に言えば、正統な後継者を追い出し、藩を乗っ取ったのです。

 この成り行きに強く憤慨したのが、直茂の養子となっていた政家の嫡男・高房です。本来なら佐賀藩主になるはずだった彼は、失意の末、慶長12年(1607)に妻を殺して自害。息子を追うように政家も亡くなり、ここに鍋島氏が佐賀藩の実権を完全に掌握しました。

 数十年後、無理心中で両親を失った高房の長男・伯庵は、家を再興しようと願い出ますが、幕府の許可は下りません。そのため佐賀藩内では、「白装束の高房の亡霊が愛馬に跨って化けて出る」という噂が立ち、迷信深い人々を震え上がらせたといいます。この背景を考えると、又七郎が囲碁で勝ちを譲らなかったのは、旧主家の意地が働いたからかもしれません。

老母の怨念が愛猫に乗り移り、化け猫が誕生

 生前の又七郎は、老母のお政と二人暮らしでした。お政が可愛がっていたのが、黒猫の「こま」です。こまは又七郎の亡父が長崎赴任時に買い求めた天竺猫で、又七郎とは兄弟のように育ち、非常に賢い猫として評判だったそうです。

 一方、我に返った光茂は自らの行為に青ざめ、近習頭の小森半左衛門に後始末を命じます。半左衛門は又七郎の遺体を庭の古井戸に捨て、家来に口止めをしました。

 何日経っても帰らない息子の身を案じたお政は、ただひたすら無事を祈り、「あの子はどこへ行ったのだろうねえ」「早く帰ってくるといいのだけど」と、こまに話しかける日々。数日後、ふらりと出かけたこまが帰ってきたとき、口にはざんばら髪を乱した又七郎の生首を咥えていました。

 愛する息子を失ったお政は嘆き悲しみ、こまに切々と無念を語った後、小刀を胸に突き刺して自害します。そして、お政の血を啜ったこまは、恐ろしい化け猫に変じ、闇の彼方へ姿を消しました。

 以来、光茂は毎晩のように幻覚を見ては錯乱し、ついに床に伏せてしまいます。主治医を呼んでも原因は分からず、症状は悪化の一途。特に愛妾・お豊の方が傍に侍っていると、さらに夢見が悪くなるようで、布団をかきむしってうなされる始末でした。

 光茂の異変にお豊の方が関わっていると推理した半左衛門は、「まさか」と疑いながらも監視を開始。そこで、信じ難い光景を目撃します。夜更けを待って寝所を抜け出したお豊の方が、庭の池の鯉を素手で捕らえて喰らい、さらには行燈の油を舐め始めたのです。

化け猫のイラスト
化け猫のイラスト

 障子には猫の影が映り、しっぽが不気味に揺れていました。お豊の方の正体が化け猫だと見破った半左衛門は、とっさの機転でその影に斬り付け、光茂を呪っていた化け猫を討ち取ります。すると、主君である光茂はみるみる回復し、無事に政務に復帰できたということです。

史実と創作:騒動が広まった背景

 以上が、江戸っ子を震え上がらせた鍋島の化け猫騒動の顛末ですが、大部分は創作です。

 史実として確認できるのは、公儀(幕府)を味方につけた鍋島氏が、旧主である龍造寺氏を罠にかけるようにして、藩主の座を乗っ取ったという出来事までです。龍造寺又七郎とお政の母子は架空の人物ですし、現実には黒猫の「こま」も存在せず、このような物騒な事件は起きていません。

 なぜ、この話が広まったのでしょうか。

 歌舞伎の演目『仮名手本忠臣蔵』が四谷怪談と結び付けられたように、鍋島家で起きたお家騒動は、化け猫の復讐譚という形で結びつけられ、『花嵯峨野猫魔碑史』として生まれ変わりました。芝居をかけた中村座は、判官贔屓の江戸っ子には、単なるお家騒動よりも化け猫の復讐劇の方がウケると睨んだのです。

 その予想は見事的中し、嘉永6年(1853)に初演された『花嵯峨野猫魔碑史』は全国で爆発的な人気を博しました。しかし、この醜聞を嫌がった佐賀藩の抗議を受け、上演はあえなく中止に追い込まれます。皮肉だったのは、抗議を申し立てた町奉行が鍋島氏出身の鍋島直孝であったため、かえって話の信憑性が高まってしまったことです。

 歌舞伎の上演が禁じられた後も、鍋島の化け猫騒動は実録本『佐賀怪猫伝』や講談『佐賀の夜桜』などに形を変えて広がり、美女に化けて憎い人間を取り殺すという、猫又の妖しいイメージを決定づけました。

おわりに

 鍋島の化け猫騒動は、史実を脚色した伝説ですが、江戸時代の人々が化け猫の存在を信じていたことは否定できません。

 伊勢貞丈の『安斎随筆』には、「年老いた猫は尾が二股に分かれ、猫又と呼ばれる妖怪になる」と記されています。これは、気まぐれで神出鬼没な一方で、執念深さも併せ持つ猫の神秘性を物語っています。

 人間に飼われる動物として猫と人気を二分する犬といえば、誰かを祟り殺したり化けて出たりする話は極めてまれです。人に化けるのは猫、それも美女と決まっているのが、なんとも興味深いところですね。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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