大大阪の記憶 ──名市長・関一が築いた「日本一の都市」の黄金時代

  • 2026/01/29
1925年当時の大阪市の商業中心地区(『大阪市大觀 大正14年5月』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
1925年当時の大阪市の商業中心地区(『大阪市大觀 大正14年5月』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 「大大阪(だいおおさか)」という言葉をご存知でしょうか。かつて、日本の中心が江戸へと移り、明治維新によって天皇陛下も東京へ去られた後、失意の中にあった大阪が、たった一度だけ東京を凌駕し「日本最大の都市」として世界にその名を轟かせた時代がありました。それは、単なる人口増にとどまらず、近代的な都市計画と爆発的な経済力が結実した、大阪人の誇りの象徴でもありました。

 今回は、稀代の名市長・関一とともに歩んだ、大阪黄金時代の軌跡を辿ります。

帝都を凌ぎ、世界に並んだ「日本一の大都市」

 かつて「天下の台所」として経済の要衝を担った大阪ですが、明治以降、政治の中心である東京にその座を譲る形が続いていました。しかし、大正末期、大阪は歴史的な転換点を迎えます。

 当時、大阪市は急速な工業化に伴う人口流入に悩まされていました。住環境の悪化や過密問題を解決するため、大正14年(1925)4月、大阪市は周辺の鶴橋村、天王寺村、住吉村など44町村を編入する「第二次市域拡張」を断行します。これにより、行政区は従来の4区から13区へと一気に拡大。市域の面積は飛躍的に広がり、人口約211万人、面積182平方キロメートルに達しました。

 同じ頃の東京市(現在の23区に相当するエリア)の人口は約200万人。東京が大正12年(1923)の関東大震災による住民流出から完全には回復していなかったことも重なり、大阪は名実ともに「日本最大の都市」へと躍り出たのです。

 明治22年(1889)の市制施行時、大阪市は人口47万人、面積15平方キロメートルという、まだこぢんまりとした都市に過ぎませんでした。それがわずか30数年で人口は4倍強、面積も10倍以上に膨れ上がったのです。当時の大阪は「ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリ」に次ぐ世界第6位の人口を公表、マンモス都市として国際的な脚光を浴びることとなりました。

「東洋のマンチェスター」と呼ばれた工業の躍進

 大阪がこれほどの発展を遂げた背景には、強固な工業基盤がありました。そのルーツは明治初期に遡ります。

 明治3年(1870)、旧幕府の長崎製鉄所や東京関口製造所から機械や職人が集められ、大阪城三の丸の米倉跡に「大阪造兵司仮庁(後の大阪砲兵工廠)」が設置されました。この工場は東洋最大の兵器工場へと成長し、大正5年(1916)には約3万人の工員を抱える巨大施設となります。

 特筆すべきは、この工場が兵器だけでなく、民生品の製造も手掛けていた点です。神社の鳥居や水道局の送水管など、高度な鋳造技術を要するインフラ設備がここから生み出されました。そして、ここから多くの技術者たちが巣立っていき、大阪市内に中小工場を興していきます。これにより大阪の機械工業は層が厚くなり、生産額でも東京を圧倒するようになりました。

大阪市の工業地(『大阪市大觀 大正14年5月』より)
大阪市の工業地(『大阪市大觀 大正14年5月』より)

 さらに、綿糸・綿織物などの繊維産業も盛んでした。中国をはじめとするアジア諸国への輸出が好調となって加速し、絶え間なく商品が送り出されて大阪港も整備。煤煙たなびく活気に満ちたその姿は、イギリスの工業都市になぞらえ「東洋のマンチェスター」と称賛されたのです。

都市の恩人・関一市長が描いたモダン・オオサカ

 このパワフルな商業・工業都市を、洗練された近代都市へと脱皮させた人物がいます。大正12年(1923)に第7代大阪市長に就任した関一(せき はじめ)です。

関一の肖像(出典:近代日本人の肖像)
関一の肖像(出典:近代日本人の肖像)

 関はもともと東京高等商業学校(現・一橋大学)の教授を務めた学者でしたが、その手腕を買われて大正14年に大阪助役に転身、のちに市長として三期にわたり市政を担いました。彼の政策は、100年後の現在も大阪の骨格として生き続けています。

 大坂のシンボルである御堂筋の拡張、淀屋橋や大阪駅前の区画整理、大阪市中央卸売市場開設、地下鉄の建設など、関が推進した事業はどれも当時の日本で最も先進的であり、現在でも「大大阪の恩人」と呼ばれています。彼は財閥資本が中心の東京と比べて、「大坂の空気ははるかに自由であって、経済上の活力で東京は大阪に及ばない」と語り、市民の知恵と力による都市造りを信じていました。

道頓堀(『大阪市大觀 大正14年5月』より)
道頓堀(『大阪市大觀 大正14年5月』より)

 昭和12年(1937)に制作された広報映画『大大阪観光』には、その結晶が記録されています。エレベーターで昇れる通天閣、白熊が泳ぐ最新の天王寺動物園、世界最高峰のカールツァイス社製のプラネタリウム、そして心斎橋や千日前の賑わいなど。この映画は、本来なら1940年に東京で開催されるはずだった五輪や万博に訪れる外国人観光客向けのものでした。そこには、都市の影である煤煙や水上生活者の姿など、都市生活の負の面も正直に映し出されており、関市長が目指した「理想と現実を直視する近代精神」が垣間見えます。

市庁舎の変遷と、熱狂の「大大阪デー」

 大阪市の歩みは、決して平坦なものではありませんでした。明治新政府の下で誕生した最初の市庁舎は、江之子島にあった大阪府庁舎のわずか7室を「間借り」するところから始まっています。当時は大阪府知事が大阪市長を、府の職員が市の職員を兼任していた時代です。

 明治31年(1898)に初代市長・田村太兵衛が誕生し、ようやく独立した市庁舎が建てられます。そして大正10年(1921)、交通の便の良い中之島の大江橋南詰付近に、威風堂々たるルネサンス様式の新市庁舎が完成しました。関一市長はこのモダンな庁舎で働くことになります。

大阪市庁舎(『大阪市大觀 大正14年5月』より)
大阪市庁舎(『大阪市大觀 大正14年5月』より)

 第二次市域拡張が完了した大正14年(1925)4月1日、中之島公会堂では盛大な記念式典が挙行されました。人々はこの日を「大大阪デー」と呼び、街中がお祭り騒ぎとなりました。造花で飾られたタクシーが走り回り、新聞社の飛行機が空を飛び交い、夜になるとイルミネーションで彩られた市電が街を照らしました。大阪が文字通り、日本で最も輝いた瞬間でした。

首都になり損ねた大阪

 実は、歴史の歯車が少し違っていれば、大阪が日本の「首都」になっていた可能性がありました。

 明治維新のころ、日本の首都を大阪にしようとの話がありました。慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで新政府軍が旧幕府軍を破った直後、新政府の中心的人物であった大久保利通の進言です。

大久保:「国が新しくなったのだから都も旧弊を改め、閉鎖的なイメージのある京都を出て遷都するのが良かろう。まだまだ幕府の影響が残る江戸ではなく、経済的発展を遂げ、京都からも比較的近い大阪が良いだろう。外交の点からも海にも接してもいる」

 この考えは攘夷派志士で福岡藩士の平野國臣や、尊皇攘夷派の真木保臣も主張しています。しかし京都の公家衆は猛反発し、妥協案として天皇の「大阪行幸」との形に落ち着き、同年3月に天皇は御堂筋沿いの西本願寺津村別院に入られました。

 この後も「都を新しく作りたい」との声は収まらず、最終的には「既に幕府所在地として首都機能を持っていた江戸がやはり良かろう」となります。公家衆の反発を押さえるため、こちらも天皇の行幸との形を取るのですが、結局は天皇がそのまま腰をおちつけてしまい、なし崩し的に東京が首都となりました。

 もしこの時、大阪に都が置かれていれば、日本の形は大きく変わっていたかもしれません。

おわりに

 大阪が都市基盤など、ハード面で充実したピークは、先述の映画『大大阪観光』が作られた昭和初期です。文化・芸術のソフト面では、独特の都市文化が芽生えかけましたが、熟成を待たないままに終わってしまったとの指摘もあります。太平洋戦争の足音が近づくと、軍事産業の一極集中によりヒト・モノ・カネは東京へと吸い上げられ、次第に大阪は「大大阪」としての圧倒的な優位性を失っていきました。

 ただ、関一市長が築いた広い道路や地下鉄、そして「自由な空気」こそが、戦後復興を支える基盤となったことは間違いありません。日本一を誇った「大大阪」の記憶は、今も大阪の街並みと、そこに住む人々の進取の気性の中に、脈々と受け継がれているのです。


【参考文献】
  • 読売新聞昭和時代プロジェクト『昭和時代 戦前・戦中期』(中央公論新社 2014年)
  • 橋爪紳也(編)『大大阪の時代を歩く』(洋泉社 2017年)
  • 大阪市史編纂所(編)『大阪市の歴史』(創元社 1999年)
  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。
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