豊臣秀吉はどうやって関白になったのか? その驚くべき手口とは
- 2025/04/24

天正13年(1585)、豊臣秀吉は関白の座に就くと、のちに「豊臣」姓を授けられ、名実ともに天下人になった。それは関白相論のどさくさに紛れて実現したことなので、詳しくその経緯をたどることにしよう。
関白相論の経緯
関白相論とは二条昭実と近衛信輔が関白職をめぐって争い、その相論(争い)に乗じて秀吉が関白に就任した出来事である。関白相論には、どのような事情があったのか、その経緯などを取り上げることにしよう。天正13年5月の時点で、関白以下の任官状況と以後の予定は下記表のとおりだった。
官職と任官状況 | 以後の予定 |
---|---|
関白 二条昭実 | 一年程度の在職ののち辞任 |
左大臣 近衛信輔 | 関白(左大臣兼務) |
右大臣 菊亭晴季 | 辞任 |
内大臣 豊臣秀吉 | 右大臣 |
関白職は五摂家の持ち回りとなっていたので、上記の予定で進められていたが、この人事計画にクレームがついた。人事計画に反対したのは秀吉で、織田信長が右大臣を極官(最高の位)として天正10年(1582)6月の本能寺の変で横死したので、縁起が悪いと言い出したのである。
秀吉は信長の「凶例」を避けるため、右大臣でなく左大臣への就任を要望した。右大臣よりも左大臣の方が高位だったので、厄介なことになった。当時の感覚では不吉な例を信じたので、秀吉の言い分は理解できなくもないが、本当にそう思っていたのか疑問がないわけでもない。
困り果てた朝廷
秀吉の申し出に対して、朝廷は大いに困惑した。朝廷は京都の治安維持などのこともあり、秀吉の意向を無視するわけにはいかなかった。秀吉は御所造営にも援助を惜しまなかったのだから、決してなおざりにできない存在だったのである。ところが、秀吉の要望を受け入れると、余計に話がややこしくなってしまう。内大臣の秀吉が左大臣に昇進すると、いったん信輔は任官のない状態を経て、昭実の辞任後に関白職に就くことになる。こうした手順は今までになかったことで、極めて異例だった。
信輔は
信輔:「近衛家では元大臣という(無官)状態から、関白になった者は今までなかった」
と主張すると、昭実に辞任を迫り、関白職を譲るよう要求した。これに対して昭実は、関白に就任してわずか1年足らずでもあり、
昭実:「二条家では関白に就任して、1年以内に辞任した者はいない」
と反論し、関白辞任を拒否したのである。
秀吉の提案
2人の間には険悪なムードが漂ったが、争いは朝廷に持ち込まれ、「三問三答」という裁判方法で行われることになった。「三問三答」という訴訟手続は、訴人(原告)の訴状に対して論人(被告)が陳状を提出し、両者の問答がそれぞれ三回ずつ行われるものである。信輔と昭実の争いは深刻なことになり、解決は極めて困難な状況に陥った。お互いの主張は真っ向から対立し、決して互いに解決に向けて話し合う気持ちがなかった。結局、秀吉のもとに2人の争いが持ち込まれ、裁定を行うことになった。秀吉は配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季に相談し、穏便な解決策の検討を命じたのである。
晴季は、秀吉が関白職になるという予想さえしなかった提案を行った。秀吉は晴季の意見に賛意を示すと、
秀吉:「いずれ(近衛家、二条家)を非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」
と、もっともらしい理由付けをして、関白就任の意向を示したのである。しかし、秀吉が関白に就任するには、大きな障壁が立ちはだかった。
関白に就任できるのは、五摂家だけに限られていたが、もちろん秀吉は該当しなかった。そこで、近衛前久が秀吉を猶子として迎えることになった。その見返りとして、秀吉が関白を辞したときは、子の信輔に譲ることを約束させたのである。
猶子とは、相続を目的としない仮の親子関係のことである。前久も信輔も、秀吉の関白職就任は暫定的な措置に過ぎず、のちには自分たちに戻ってくると信じていた。こうして天正13年7月、秀吉は念願の関白に就任したのである。
とはいえ、一連の関白就任の経緯は、秀吉が仕組んだという疑惑がないわけでもない。結論を先に言うと、関白職を五摂家に戻すという約束は、反故にされたからである。
反故にされた約束
その後、秀吉と朝廷との関係は、どうなったのだろうか。また、秀吉は関白職を信輔に譲ったのだろうか。この辺りについて考えてみよう。天正14年(1586)9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第を築き、大坂城から移ってきた。さらに、後陽成天皇に位を譲った正親町天皇が、秀吉の造営した新御所に入った。同時に、秀吉は太政大臣に就任し、「豊臣」姓を下賜されたのである。
秀吉は近衛前久の娘前子を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。こうして秀吉は、天皇の外戚になり、天皇を利用すべく周到に準備をしていた。天正16年(1588)、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、秀吉は諸大名に天皇と自身に忠誠・臣従することを誓約させた(『聚楽行幸記』)。
秀吉は朝廷の権威をバックにして、諸大名を従わせることに成功した。その後、秀吉は独自の武家官位制を作りだし、諸大名に官職を授けることで統制を行ったのである。
先述のとおり、秀吉が関白を退いたあとは、五摂家へ戻されることになっていた。しかし、天正19年(1591)に秀次が関白職を継承したことで豊臣家に世襲され、約束は反故にされたのである。秀吉は関白相論に乗じて関白職に就き、その後も巧みな手法で朝廷を利用した。
秀吉と信長が大きく異なるのは、官職をいかに扱うかという点になろう。秀吉は関白、太政大臣はもちろんのこと、「豊臣」という新たな姓を賜った事実から、「源平藤橘」という伝統に比肩しようとした形跡がうかがえる。
まとめ
本能寺の変後、秀吉は信長の後継者として天下人になった。信長は右大臣まで昇進したが、征夷大将軍、関白、太政大臣には興味を示さなかったといわれている。副将軍の就任を勧められたこともあったが、結局、辞退したのである。一方の秀吉は出自が農民だったといわれており、信長とは事情が違っていた。いかに、秀吉がライバルを打ち倒しても、物足りないものがあったに違いない。そこで、秀吉は関白に就任することによって、朝廷をバックとした権威を身につけようとしたのだろう。
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