大河ドラマ「べらぼう」 死後の戒名にまで「売女」の文字を付けられた遊女たちの悲惨な境遇とは?
- 2025/08/04

大河ドラマ「べらぼう」第29回は「江戸生蔦屋仇討」。「べらぼう」第1回において、病死した吉原遊廓の遊女が裸同然で寺院に投げ込まれるシーンが話題を呼びました。遊女たちの中には20代でこの世を去るものも多くいました。「非衛生的な環境」「粗食」「過労」──そういった様々な要因が遊女の体を蝕んでいったのです。哀れにも早逝していく遊女たち。亡くなった遊女の戒名には「売女」の文字が入ることもありました。
例えば「志田」という遊女は「新顔」(新人)だったようですが、29歳の若さで亡くなっています。志田の戒名は「安誉詳室売女」。また26歳で「病死」した遊女「しつ」の戒名は「天誉妙讃売女」でした。戒名に「売女」ではなく「遊女」と付け加えられることもありました(例えば「刄誉求生遊女」)。
戒名の中にまで「遊女」「売女」と付けられたことは、より一層、哀れさを誘います。遊女らは様々な病で亡くなっていきましたが、その主なものは「脚気衝心」「梅毒」「結核」でした。戒名を「花顔妙影信女」と付けられた遊女は「肺結核」で亡くなりましたが、それだけでなく「精神錯乱」を起こしていたようです。
明治5年(1872)に生まれたこの女性は、明治23年(1890)に亡くなっていますので、享年18。病により疎外され、精神に異常をきたし、孤独のうちに亡くなっていったのでしょうか。この女性の心境を想うと涙を禁じ得ません。
明治から昭和を生きた作家・永井荷風(1879〜1959)は『夜の女界』において「悲惨極まりなきは、青楼の娼婦がその身の果てである。(中略)実に遊郭ほど、悲しくも又怖ろしいものは無いのだ」と叙述しましたが、正鵠を得ていると言えましょう。荷風は遊女の投げ込み寺としても知られる浄閑寺(東京都荒川区南千住)を何度か訪れています。同寺には荷風の筆塚があり、毎年4月30日には「荷風忌」が行われています(荷風は1959年4月30日に死去)。
【主な参考文献】
- 東京都台東区役所『新吉原史考』(東京都台東区、1960年)
- 北小路健『遊女 その歴史と哀歓』(人物往来社、1964年)
- 小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978年)
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