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「おーい、応為!」離縁上等、家事も放棄…葛飾北斎の娘・応為の痛快な生き様

  • 2025/11/27
『北斎仮宅之図』にみえる葛飾応為と北斎(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『北斎仮宅之図』にみえる葛飾応為と北斎(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 皆さんは、稀代の浮世絵師・葛飾北斎の娘、葛飾応為(かつしか おうい)の足跡をご存じでしょうか?

 北斎の子供たちの中で最も父に似ていると評判を取った彼女は、夫に離縁されたのち実家に戻り、偏屈な北斎と暮らし続けました。父をアシストする傍ら画業に取り組み、『吉原格子先之図』や『三曲合奏図』を始めとする傑作を、心血を注いで描き上げた女流絵師としても知られています。

 今回はそんな応為の破天荒な生涯を辿り、晩年の北斎の代筆を務めたという、噂の真偽にも迫っていこうと思います。

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父の才と性格を一番受け継いだ娘・お栄の武勇伝

 葛飾北斎は言わずと知れた偉大な浮世絵師です。代表作の『富嶽三十六景』は富士山の様々な表情を切り取った名画で、国内外問わず多くの人々に愛されています。

 葛飾応為こと、本名・お栄(おえい)はそんな北斎の三女として生まれました。残念ながら生没年はわかっていません。飯島虚心の『葛飾北斎伝』によると、北斎は二度結婚し、先妻と一男二女、後妻とは一男一女をもうけたとあります。応為は後妻の娘に当たり、母の名前は「こと」と言いました。

 父そっくりの跳ねっ返りに育った応為は、年頃になると同時に、3代目堤等琳の門人・南沢等明(本名・南沢吉之助)に嫁ぎます。しかし、夫婦生活は上手くいきません。物心付いた頃から北斎の絵を見て育ち、目が肥えていた応為は、針仕事を全くせずに夫の絵の下手さを笑ったのです。

「女のくせに生意気だぞ!」

「筆さえありゃ生計を立てられるのに、なんだって七面倒くさい家事なんかしないといけないんだい?」

 これには夫も怒り狂い、口達者な嫁を離縁します。「上等だよ」と啖呵を切って実家に出戻ったのち、応為は北斎の助手を務めました。家事が苦手なのは親子共通だったらしく、絵に集中すると周りが見えなくなり、二人が住む長屋はあっというまにゴミ屋敷と化しました。北斎に至っては、そこらじゅうに鼻紙を散らかしまくり、ゴミが溜まる度に引っ越しを繰り返したそうです。その数なんと93回!まさに「この親にしてこの子あり」といったところでしょうか。

 画号の由来は、北斎が「おーい」と娘を呼び付けたからというのが定説です。逆に応為の方が「おーい親父どの」と呼んでいたから、と唱える人もいます。実際の北斎は娘を「アゴ」のあだ名で呼んでおり、顎の尖りを強調した応為の似顔絵には、「腮(あご)の四角ナ女」という無神経な一文が添えられていたとか。

 応為の才と活躍に隠れがちですが、浮世絵師の葛飾辰女(たつじょ)も北斎の娘の一人とされています。ただ、彼女の来歴は謎が多く、等明と結婚していた頃の応為のペンネームとする説が有力。口うるさい夫にばれないように、ちゃっかり画号を使い分けていたのかもしれません。

 応為の性格は父譲りの無鉄砲で破天荒。絵の他には占いを好み、豆人形作りを家計の足しにしていました。

 好物は大福、下戸で甘党な北斎と対照的に、応為は酒も煙草もどんとこい。家では愛用の煙管を手放さず、父が制作中の絵に火種を落としてしまい、禁煙を決意したものの、結局長続きしなかったとか。

 親子ともども家事は完全に放棄し、日々の食事は煮売屋の総菜ですませ、食べた後の皿はほったらかし。人から貰った生魚は調理が面倒だからと近所に譲っていたそうで、これには弟子の露木為一も呆れていました。

北斎も認める美人画の名手!『吉原格子先之図』の趣深い魅力

 応為は親の七光りで有名になったわけではありません。彼女にはとびきりの才能がありました。北斎も「美人画を描かせりゃ俺より上」と実力を認めています。「女子栄女画を善す 父に従いて今専ら絵師をなす 名手なり」とは渓斎英泉の言葉です。

 ロケーションを引き立てる明暗のコントラストを意識し、ドラマチックな陰影を描き出す彼女の絵は、人々の心を掴んで離しませんでした。

 応為の最高傑作とされる『吉原格子先之図』は、幕府公認の花街・吉原の風景画です。妓楼の張見世には華やかに着飾った遊女が並び、提灯を下げた男たちが格子に群がっています。影絵めいて無個性な野次馬と、雛人形さながら取り澄ます遊女の対置に、優れた色彩センスを感じませんか?

葛飾応為 作『吉原格子先図』(太田記念美術館蔵。出典:Wikimedia Commons)
葛飾応為 作『吉原格子先図』(太田記念美術館蔵。出典:Wikimedia Commons)

 応為の絵は、従来の浮世絵にはない、不思議な立体感を備えています。それはむしろ西洋画の手法に近く、文明開化の時代を先取りしていたとも言えるでしょう。本人の落款こそないものの、『夜桜美人図』も彼女の作品ではないかと有力視されています。満天の星空の下、石灯籠の明かりを頼りに歌を詠む女性の絵姿は、確かに応為のタッチを彷彿とさせます。

 夜空の星々は等級に準じた描き分けがされており、それぞれ明度が違っているのがポイント。凄まじいこだわりにため息が零れます。

北斎の代筆をしたって本当?気になる噂を追求

 江戸を代表する女流浮世絵師にも関わらず、現存する応為の肉筆画は10点余りと少なめです。その理由は、もっぱら北斎の助手に徹していたからとされています。

 北斎は生涯現役を通したため、貧乏長屋で同居していた応為の負担は相当なものでした。そこに年老いた父の介護が加われば、苦労は察するに余りあります。

 だからでしょうか、北斎が80歳以降に描いた絵は、応為の代筆によるものではないかという説が囁かれています。幼い頃から父を手伝い、共同制作することも多々あった事実を踏まえれば、まんざらありえない話でもなさそうですね。

 大前提として北斎の一族は彼の名声に頼って生活していたので、大黒柱が倒れたら日々の暮らしが立ち行きません。加齢による手の痺れや震えを見かねて、応為が補佐することもあったはずです。

 生前の応為は沢山の弟子を抱えていました。その殆どが武家の娘や旗本の姫君で、絵が全然上手くならないと嘆く彼女たちに対し、あっけらかんと言い放ったのです。

「うちの親父どのは80過ぎても筆を放さねえが、猫1匹もマシに描けやしねえってオイオイ泣いてやがった。絵だけじゃないよ、なんだって壁にぶち当たってヤケになった時が飛躍の好機なのさ」

 これを聞いた北斎は「そうだそうだ」と相槌を打ち、場の笑いを誘ったとか。

 代筆の真偽はどうあれ、お互いに言いたいことが言い合える、風通しの良い親子関係に憧れてしまいますね。

おわりに

 嘉永2年(1849)に88歳で大往生した父親を看取ったのち、「旅に出る」と言い置いて消息を絶った応為。一人になった彼女がどんな余生を過ごしたか気にならないと言えば嘘になりますが、きっと死ぬまで絵を描き続けたのではないでしょうか。

 応為の生涯を深堀りしたい方は、アニメ映画化もされた杉浦日向子『百日紅』、朝井まかて『眩』を読んでみてください。世間に媚びず流されず、好きなことに打ち込んだ、したたかな生き様に魅せられます。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。

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