蔦重が見出した異才たち「葛飾北斎」 日本一の絵師

葛飾北斎肖像(『戯作者考補遺』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
葛飾北斎肖像(『戯作者考補遺』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 平成10年(1998)に、アメリカの雑誌『ライフ』の「この1000年で最も偉大な功績を残した世界の人物100人」に日本人から唯一選ばれたのが葛飾北斎(かつしか ほくさい)です。

 『富岳三十六景』の中の1枚「神奈川沖浪裏」は、メトロポリタン美術館長が「モナリザに次いで世界で2番目に有名な作品だ」と太鼓判を押しています。今なお評価が上がり続ける絵師・北斎とはどのような人物だったのでしょうか。

栴檀は双葉より

 北斎は宝暦10年(1760年)9月23日に下総国本所割下水、現在の墨田区亀沢あたりで生まれたとされます。6歳ぐらいで物の形に興味を持ち、それを写し取ったと言います。天才画家にありがちな逸話ですが、本人も『富嶽百景』の後書きに「己六歳より物の形状を写すの癖ありて」と書いています。

 10歳のころに江戸の貸本屋で小僧になった北斎。14~15歳になると、彫師に付いて版木の文字彫りを始めます。安永4年(1775)に出版された『楽女格子(がくじょこうし)』という洒落本で文字の一部を彫ったことを嬉しそうに周りに喋っています。

※参考:富岳三十六景・神奈川沖浪裏(出典:ColBase)
※参考:富岳三十六景・神奈川沖浪裏(出典:ColBase)

 安永7年(1778)19歳の時、当代一の人気浮世絵師・勝川春章(かつかわ しゅんしょう)に弟子入り。その才はすぐに春章の目に留まり、1年で勝川春郎の号を与えられ、浮世絵師デビューを果たしました。初作は鱗形屋孫兵衛の店で出した『吉原細見』の挿絵です。

 勉強熱心な北斎は美人画の他に、相撲絵や黄表紙の挿絵にも取り組み、当時はまだ珍しかった西洋の遠近画法を取り入れたりします。その過程において狩野派の狩野融川(かのう ゆうせん)にも教えを乞いましたが、これが別流派に寝返ったと問題になり、破門のような形で春郎の号も返上、勝川派を追い出されてしまいます。もっとも真相は北斎の才能を妬んだ兄弟子たち、特に一番の高弟・勝川春好の嫌がらせと言われています。

北斎世に出る

 勝川派を去った北斎は七味唐辛子の売り子になってまで生活を支えましたが、やがて一筋の光明が見ます。門をたたいた流派の一つ、光琳画法の継承者・俵屋宗理(たわらや そうり)の名を継ぐことが出来ました。寛政6~7年、北斎35歳のころです。華やかな琳派の技法も我が物にして色刷り版画や摺り物が評判を取り、北斎の人気は定着して行きます。

 同じころに訪れたもう1つの幸運、すでに版元として名を上げていた蔦屋重三郎が狂歌絵本の挿絵の仕事を任せてくれました。重三郎は北斎を喜多川歌麿や東洲斎写楽に次ぐ絵師として売り出そうとしていましたが、重三郎自身が寛政9年(1797)に亡くなってしまったため、その夢は叶いませんでした。2人の縁はわずか数年でした。

 次々と仕事をこなしていた北斎ですが、ここで琳派を離れ、宗理の名前も門人に譲ってしまいます。そして名乗ったのが北斎辰政(ときまさ)です。北斎は日蓮宗北辰妙見を篤く信仰しており、この号も己の長寿を願うものでした。長生きしてもっともっと画業を研鑽したい… 90歳の長寿を得て願いは聞き届けられたようです。

 8年後の文化3年(1806)、47歳で葛飾北斎を名乗ります。翌年、滝沢馬琴の『椿説弓張月』の挿絵を描き、以前からコンビを組んでいた2人ですが、この作品の大ヒットで両人は一躍売れっ子作家になるのです。

葛飾北斎が描いた、大弓を引く源為朝の挿画(『椿説弓張月』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
葛飾北斎が描いた、大弓を引く源為朝の挿画(『椿説弓張月』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

北斎漫画

 文化7年(1810)、新しく載斗(たいと)の号を名乗った北斎は、『北斎漫画』を描き出します。そして文化9年(1812)に北斎は関西へ旅立ち、途中立ち寄った名古屋で浮世絵師・牧墨僊(まき ぼくせん)の元で居候します。

 その間、北斎は毎日目に入るものを手当たり次第に描き、半年ほどの間に300枚の下絵が出来上がりました。これを2年後に名古屋の版元・永楽屋東四郎から出版したのが『北斎漫画』です。“漫画” とは「気の向くままにそぞろに描いた絵」と言うぐらいの意味です。

初版の『北斎漫画』(『北斎漫画 1編』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
初版の『北斎漫画』(『北斎漫画 1編』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 そのころ多くの弟子を抱えていた北斎は、とても一人一人の弟子に教える事が出来ず、彼らの手本にと思い、一冊だけ出版するつもりでした。人物・鳥獣・虫魚・各種道具・風景・草花・名所旧跡など形のあるものすべてを対象に描かれた本は絵画の教本にぴったりです。

 『北斎漫画』は刊行されると一門の枠を超え、浮世絵師を目指す者・浮世絵愛好家・図案が必要な彫り師・漆工・陶工など、様々な分野の人々が争って買い求め、たちまちベストセラーとなります。この反響に江戸へ戻った北斎は続編に取り掛かります。

 第二・第三版は文化12年(1815)、第四・第五版は翌年に、と言う具合に次々と版元を追加・変更しながら刊行され、結局は第十五版まで刊行されました。北斎は嘉永2年(1849)に亡くなりますが、死後も発行は続き、最終版が出たのは1878年。すでに明治11年になっていました。55歳で初版を出し、死後29年でようやく完結した画集、総ページ数970・収録された絵4000点、まさに北斎のライフワークです。

最終版の『北斎漫画』(『北斎漫画 15編』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
最終版の『北斎漫画』(『北斎漫画 15編』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 作者の死後も新作なしで刊行を続けるのは大変な作業です。最終編で版元は他の書物から掻き集めた北斎の絵を名古屋の絵師・織田杏斎に描き写させ、ようやく出版に漕ぎつけました。題材も第四版は日本と中国の伝説上の人物や鳥類・草花・十二支・中国の家・水中の芸など、第五版は鳥居・鐘楼・経蔵・寺の屋根・日本の伝説の人物や神などそれぞれ趣向を変えています。

小布施への逃避行

 北斎は89歳の高齢になるまで、少なくとも4回は信濃国小布施(現:長野県上高井郡小布施町)へ旅しています。そのころの小布施は北信越の交通の要衝であり、大いに賑わっていました。それを支えたのが豪農商と呼ばれる人たちで、北斎はその中の一人、塩売買や酒造業を手掛ける高井鴻山(こうざん)と懇意にしていました。北斎は鴻山が用意してくれた住まい、碧漪軒(へきいけん)に住み、滞在費も作画にかかる費用も一切鴻山が面倒を見てくれました。

 しかしなぜ90歳も近い北斎が遠い信濃まで4度も足を運んでいるのでしょうか?天保の飢饉や家事に襲われた後、老中の水野忠邦は天保の改革を行います。贅沢の取締の手は錦絵や絵草子にも及び、北斎の十年来の知己戯作者・柳亭種彦も御用となり獄中で亡くなってしまいます。種彦の死は水野の配下・鳥居耀蔵の拷問ではないかと疑われており、北斎も拷問死を暗示するような絵を描いています。

 北斎は自身の身にも司直の手が伸びるのを感じたのでしょうか。江戸暮らしは窮屈とばかりに小布施へ逃れます。この地で北斎は大迫力の屋台の天井画龍・鳳凰・男浪女波の怒涛図などの肉筆画を残しました。

北斎肉筆画の傑作『八方睨み鳳凰図』のイメージ
北斎肉筆画の傑作『八方睨み鳳凰図』のイメージ

おわりに

 天保5年(1834)、北斎は75歳で最後の号・画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)を名乗ります。この年は前年発表された歌川広重の『東海道五十三次』に負けじと『富嶽百景』を発表した年です。

『富嶽百景』より(出典:ColBase)
『富嶽百景』より(出典:ColBase)

 そして、『富嶽百景』の後書きには北斎の意気込みが書かれています。

「七十歳までに描いたものは取るに足りないものばかりだ。七十三で生き物の造作や草木の生れを多少知る事が出来た。八十になればますます上達し、九十で奥義を極め、百歳に至って神妙の域に達するだろう。百十歳になって描く一点は命を得たかのようなものになるだろう。」

 このように老いてますます盛んな北斎は、嘉永2年(1849)、90歳の臨終に臨んで、次のように言い残したそうです。

「天があと10年、いや5年の寿命を下されば真正の画工になれただろうに」


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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