大河ドラマ「べらぼう」 『赤蝦夷風説考』の著者・工藤平助が漢籍を読みこなせるようになった学習スタイルとは?
- 2025/06/02

大河ドラマ「べらぼう」第21回は「蝦夷桜上野屁音」。工藤平助とその著書『赤蝦夷風説考』について触れられていました。
工藤平助(1734〜1801)は江戸時代後期の医師・学者です。平助は紀州藩の藩医・長井常安の3男として生まれます。13歳の時、平助は仙台藩医・工藤丈庵の養子となりました。平助が家督を継いだのが宝暦4年(1754)のこと。父から300石と医業を受け継いだ平助は、江戸日本橋に住むことになりました。平助の人間関係は幅広く、儒学を青木昆陽(サツマイモの普及を図った。甘藷先生として有名)、医学を中川淳庵(前野良沢・杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳)、蘭学の先駆者と評される野呂元丈らに学んでいます。大名から庶民に至るまで区別せずに診療した平助は「流行医」となり、家は豊かになっていきました。

平助の娘は江戸後期の女性文人として知られる只野真葛(1763〜1825)ですが、彼女は回想記『むかしばなし』において「父様」(平助)の名が広まったのは平助が24・5歳の頃で30歳になる頃には平助の「高名」を慕い、松前や長崎といった遠国から弟子になりたいと言ってやってくる者がいたようです。前述のように平助は工藤丈庵の養子となったのですが、丈庵は平助には「医の道」を少しも伝授することはなく「書物」(儒教の書物)のことを教えていたとのこと。平助が養子に入った時のこと、丈庵は「書物は読んできたか」と尋ねます。
それに対し平助は実家では書物を読んでいなかったと回答。その事を聞いた丈庵は『大学』(儒教の書物の1つ。論語・孟子・中庸・大学を四書という)を側に取り寄せて、その始めから終わりまでを3回読んで教えるのでした。そして「明日までによく覚えておけ」と言うと出勤するのです。寝食を忘れて『大学』の読解に励む平助。明朝にはまた養父からの3回に亘る講義がありました。そうした事を毎日のように行い、丈庵は10日ばかりで四書を全て講義したのです。「五経」(『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』)も同じように教授されました。
丈庵の薫陶の甲斐あって、平助は2・3ヶ月のうちに様々な漢籍を読めるようになったのです。平助の努力、自学自習の成果とも言えるでしょう。
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