織田信長が用いた花押、「天下布武」の朱印に込められた意味とは?

信長が永禄8年(1565)頃から用いるようになったという「麟」字型の花押(イメージ)
信長が永禄8年(1565)頃から用いるようになったという「麟」字型の花押(イメージ)

たくさんあった信長の花押

 花押とは書状などの末尾に添えられたサインのことで、平安時代頃から使用されるようになった。そのデザインは実にさまざまで、実名を図案化したものが基本的なものだが、動物などをかたどったおもしろいものもある。

 信長の花押の形状は、大雑把に言えば4種類に分類することができる。ところが、微妙な形状の変化に注意して、さらに細かく分類すると、14種類に分けることができる。信長ほど頻繁に花押の形状を変えた例は、なかなかほかには見られないという。

 戦国大名の中には、まったく花押の形状を変えないことがある。一方で、時間の経過や主君が変わったことなどで、花押を変えることは決して珍しくない。ちなみに、無年号文書の場合、花押の形状変化によって、ある程度の年代を絞る指標となりうる。

 初期段階における信長の花押は、足利将軍家の花押と酷似しており、父の信秀と同じ傾向を認めることができる。天文21年(1552)以降、信長は「信長」の草書体を裏返して組み合わせた花押を使うようになった。

画像左は信長が最初に用いたとされる足利様の花押。右は1552年以降に使用(イメージ)
画像左は信長が最初に用いたとされる足利様の花押。右は1552年以降に使用(イメージ)

 この頃、父の信秀が亡くなったので、それが花押を変更した理由の一つになったと推測される。その後、信長は天文24年(1555)2月、弘治4年(1558)1月と花押の形状を変更した。その間であっても、信長は花押の微妙なマイナーチェンジを行ったのである。

「麒麟」の花押の意味とは

 このように、信長は花押の形状を繰り返し変更したが、永禄8年(1565)頃からは「麒麟」の「麟」の字をデザイン化して用いるようになった。信長が花押の形状を大幅に変更した理由は、どのようなところにあったのか。

 そもそも麒麟は、古代中国で聖人が出現して良い政治が行なわれる際、その証として登場する想像上の動物だったといわれている。したがって、信長は平和を実現するという意味を込めて、「麒麟」をデザイン化した花押を使用した可能性がある。

 なぜ永禄8年(1565)になって、信長は花押を変更したのだろうか。同年4月、室町幕府の将軍・足利義輝は、三好三人衆の攻撃を受けて殺害された。現職の将軍が殺害されたのは、嘉吉の乱の足利義教以来のことである。

 現職の将軍が殺害されるという未曾有かつ衝撃的な出来事に対して、信長は何か思うところがあったのかもしれない。のちに信長は、足利義昭の要請に応じて上洛作戦を展開したので、幕府再興に意欲を燃やしていたのは事実である。

 この「麒麟」という文字をデザイン化した花押も、その後は少しずつ変化を遂げたことが指摘されている。やはり、信長は花押に対するこだわりが、非常に強かったといえるのである。

 補足しておくと、信長は自筆の書状が少なく、確実なのは1通だけである。書状の大半は、右筆によるものだった。信長の発給文書は自筆を含めると、12種類の筆跡が確認されている。つまり、信長の自筆を除く、11種類が右筆の書いたものだ

信長が用いた印章

 信長は花押に加えて、印章を用いたことで知られている。花押は自ら筆を執る必要があったが(花押を木版にしたものもあった)、印章はハンコのようなものなので、大量に発給することが可能だった。

 信長の印章もまた、形状だけで4種類に分類することができる。うち3種類の印文は有名な「天下布武」の朱印(あるいは黒印)であり、残りの1種類の印文は「寶」と刻印されている。後者は、黒印のみで用いられたという。

 「天下布武」印は朱印と黒印の2種類があるが、どのように使い分けられたかはわからない。この辺りの分析は、今後の課題といえよう。

信長の天下布武の朱印。画像右が永禄11年、左が永禄13年頃に用いたという。(『織田時代史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
信長の天下布武の朱印。画像右が永禄11年、左が永禄13年頃に用いたという。(『織田時代史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

「天下布武」の意味

 残念なことに、「天下布武」印は現存しない。「天下布武」印の形状はさらに3種類に分類できるが、もっとも有名な「天下布武」印は楕円形のものだろう。最初は金で「天下布武」印を作製したが、印影が薄かったので銅を混ぜて作り直しをさせたという(『政秀寺記』)。

 永禄10年(1568)、信長は美濃の斎藤氏を討ったが、この頃から「天下布武」印を用いるようになった。少なくとも信長は、これ以前から上洛を志向したと考えられるが、斎藤氏の存在が障壁となり、なかなか実現しなかった。

 信長が実際に足利義昭を推戴し、上洛を果たしたのは、翌年の9月から10月にかけてのことである。では、なぜ信長は、「天下布武」という文字を印文に選んだのだか。この点をもう少し考えてみよう。

 「天下布武」という文字を提案したのは、政秀寺の開山だった沢彦宗恩(たくげんそうおん)という僧侶である。信長は沢彦から「天下布武」の印文を提案されたとき、四文字だったので拒否する姿勢を見せたという。

 そこで、沢彦は「中国では四文字の印文は普通に用いられている」と信長に説明し、採用になったと伝わっている(『政秀寺記』)。ただ残念ながら、「天下布武」の出典は今のところ不明である。

 ところで、沢彦は「岐阜」を命名した人物として知られている。先述のとおり永禄10年(1568)、信長は斎藤氏を放逐し、美濃を支配下に置くことに成功した。その際、沢彦は「井ノ口」と呼ばれた城下を「岐阜」に改称させた。それは、周の文王の故事にならったといわれている。沢彦は信長にとって、ブレーン的な存在だったようである。

まとめ

 付け加えておくと、信長が用いた「天下」は、日本全国を意味しない。それは、天皇や将軍の支配領域である京都を中心とした畿内を示していた。信長は必ずしも「全国統一」という意味での「天下統一」を目論んでいなかったことが明らかにされている。

 逆に、信長は幕府や朝廷を支援し、京都を中心とした畿内に秩序と平和をもたらそうと考えていたようだ。そうなると、我々が抱いている信長=全国統一という考え方は、改められなくてはならないだろう。

 このように、信長の花押や朱印・黒印にはさまざまな特徴があるので、博物館の展示などで注意深く見ると興味深いかもしれない。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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