信長の堺支配 「金と力のある街、力づくで潰しては元も子もない」

 「此の町はヴェニス市の如く執政官に依りて治められる。市の壮麗・富裕・有名なる事日本の都市にして此の右に出づるものなし」

 これはイエズス会宣教師が『耶蘇会士日本通信』に記した文章です。はて、その壮麗・富裕な都市とはどの街の事でしょうか。

それは堺

 それは和泉・摂津両国にまたがる堺庄の事です。16世紀の堺は街の周りをぐるりと防衛のための堀に囲まれ、西側は大阪湾へ直接出られるよう水路が切ってありました。町並みが碁盤の目状に整備され、野遠屋(のとや)・紅屋など、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる36人の有力町人によって市政が運営されていました。まさにヴェニス市のような市民による自治都市でした。

 この景気の良さそうな町に目を付けたのが織田信長です。堺の商人が種子島に寄った時に倣い、覚えた鉄砲製造の技術を伝え、当時有数の鉄砲生産地になっていた事も信長を引き付けました。永禄3年(1560)、海道一の弓取りといわれる今川義元を桶狭間で破り、その後に徳川家康・浅井長政らと同盟を結んで後顧の憂いを失くした信長は、いよいよ天下に号令するべく上洛を目指します。

 永禄11年(1568)9月、室町将軍・足利義昭を奉じて上洛し、同年10月に摂津・和泉・本願寺・堺などに銭二万貫の軍使金供出を命じます。二万貫を現在の価値でいうと大体2億円ほどです。他の者たちが渋々応じたのに堺ばかりは拒んだだけではなく、信長へ反攻の姿勢に出ました。牢人を雇って街を取り囲む堀を深くし、櫓(やぐら)を建てるなど防備を固めました。さらには同様の自治組織を持つ平野庄に同盟を呼びかけます。

 もっとも堺や同盟都市だけの力では信長の武力に対抗できないため、摂津や河内に勢力を張っていた三好一族の助力も期待します。翌永禄12年正月、信長が岐阜に戻った隙を突き、三好一族は義昭の居館・本圀寺を襲いますが、救援に駆けつけた細川藤孝や池田衆・伊丹衆に打ち払われ、桂川河畔の合戦で敗北します。(本圀寺の変)

堺だけじゃ無理

 この有様に堺では女・子供を大坂平野へ逃がし、町の防備を固めますが、結局町衆の力だけでは信長に抗すべくも無いと判断しました。堺は信長の要求通りに銭二万貫を払って、今後牢人は雇わない、三好一族に加担しない等の誓約を行います。

 実は堺に攻め込み、その富を失うことを恐れた信長は懐柔策も取っていました。その相手が豪商・今井宗久(いまい そうきゅう)です。宗久は永禄11年10月に信長が芥川陣中で開いた茶会に参加。名物である松嶋の壺と紹鷗茄子の茶入を献上するなど、交流を持っていました。今井氏は元々は近江守護佐々木氏の末裔で近江国高島郡今井市城主でしたが、宗久は堺に出て豪商茶人・武野紹鷗(たけの じょうおう)の娘婿となり家産を譲られていました。

 信長の懐柔策に応じるような素振りが認められたのでしょうか。永禄11~12年(1568~69)にかけて、宗久は信長や義昭から数々の特権を与えられています。

  • 1.淀川の自由通行権
  • 2.堺鉄砲鍛冶の統制
  • 3.堺南材木町・甲斐町の運上銭の徴収権

などですが、宗久はこれらの特権により経済基盤を強化、堺町人衆での指導的立場を築いて行きます。

 会合衆の一員として外部勢力の堺への介入を阻止する立場だった宗久が、権力者から特権を与えられ権力を背景とする御用商人化したことは堺の自治組織崩壊の前触れでした。

堺の他の商人たち

 では堺の有力町人たちがすべて宗久と同じ行動をとったのでしょうか?

 堺が信長に膝を屈したのち、堺の町人たちの序列が変わります。逸早く信長に従った宗久が町人勢力の中心となり、抵抗派だった能登屋・紅屋たちはかつての威勢を失いました。もう一派・津田家とその一族は別の道を辿ります。宗及の津田家は屋号を「天王寺屋」と称し、16世紀を通じて堺で繁栄し、信長上洛時には一族に加えて高石屋宗好・塩屋宗悦・松江隆仙らと共に天王寺屋グループとも言うべき一大勢力を形成していました。

 つまり、当時の堺は3つのグループに分かれていたのです。

 永禄12年(1569)2月11日に堺の大商人 天王寺屋 津田宗及が、自邸に佐久間信盛・柴田勝家・和田惟正ら信長の武将や義昭の家臣100人を招いて終日供応しました。実質的な信長への屈服です。このように宗及は必ずしも反信長ではありませんでしたが、今井宗久のように当初から信長と通じていたのでもありません。信長上洛直後から大坂石山本願寺との関係を緊密にし、三好氏との交渉も保っていました。宗及としては事態はまだ流動的、台頭してくる今井氏を睨みながら、いずれの勢力とも距離を取るのが賢明と判断したのでしょう。

情勢は変わる

 永禄12年以降になると、宗及と宗久の動きに変化が見られます。信長の上洛から本能寺の変(1582)までの15年間に両者は44回も茶会を開いています。当時の商人や武将の茶会は「わびさび」などの風雅な世界ではなく、情報を交換し、互いの立ち位置を確認し、敵味方を判別し、といたって生臭いものでした。

 宗及は宗久との親交が増すにつれて、元亀2年(1571)9月以降は本願寺坊官・下間氏との茶会を持たず、三好一族との交流も元亀3年をもって断絶して行きます。宗久が宗及と親密になって行ったのは、堺の名門 天王寺屋と結ぶことで堺内での自分の地位を確立したかったからでしょうし、宗及が信長派の宗久に近付いたのは、台頭目覚ましい宗久を無視できなくなったからでしょう。そしてなにより信長の力が破竹の勢いで増していました。

 宗及が信長への従属を決めたのは天正元年(1573)であったと思われます。この年の4月、信長の長年の宿敵であった武田信玄が急死し、7月には将軍足利義昭が追放されて室町幕府は滅び、8月には浅井・朝倉氏も滅亡します。いわゆる信長包囲網はズタズタになりました。

御用商人の道を選ぶ宗及

 世間の情勢を見て「これからは信長」と判断した宗及は、11月23日に京都妙覚寺で信長が開いた茶会に天王寺屋グループの有力商人を引き連れて参上し、歓待を受けました。この席で信長は白天目茶碗を披露していますが、これは武田信玄を仲介に信長と本願寺の講和が成立した時に本願寺法主・顕如上人から献上されたものです。

 翌24日には入れ替わるように今井宗久や山上宗二が茶会に出席します。信長は今度は白天目を引っ込めてしまいました。宗及が確実に信長と対面したのはこの茶会が初めてで、これ以降織田家臣団と宗及の交渉は頻繁になり、特に明智光秀や佐久間正勝は宗及の茶会にたびたび出席しています。

 宗及や宗久のグループが台頭して行くのとは反対に、野遠屋や紅屋など反信長グループは堺での影響力を失っていき、信長は政権御用商人と化した宗及・宗久グループを通じて堺を支配して行きました。天正2年(1574)3月に上洛した信長は、京都相国寺で大規模な茶会を開き、津田宗及・今井宗久・千宗易の3人に特別に名物・千鳥香炉を披露しています。これ以降、この3人は織豊期を通じて茶頭として権勢を振るうようになりました。

おわりに

 なぜ堺の町の自治組織が崩れて行ったのか?もちろん1つの町が抗すべくもない信長の強大な武力が大きな要因ですが、堺の町衆が利益を追求する商人でありながら、町の自治を支える会合衆でもあった二面性を持っていたのが原因と考えられます。

 信長は自身の大きな権力を背景に商人たちに多くの経済的特権を与えました。商人として家業を繁栄させ、利益を追求せねばならない町衆が、自治組織の一員としての立場を棄ててでも、信長との結びつきを強めて御用商人化していくのは必然でした。


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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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