大河ドラマ「べらぼう」 蔦屋重三郎はどのようにして江戸日本橋に店を構えたのか?

 大河ドラマ「べらぼう」第24回は「げにつれなきは日本橋」。蔦屋重三郎の江戸日本橋進出が描かれました。

 吉原の蔦屋が日本橋に進出したのは天明3年(1783)9月のことでした。日本橋には書物問屋がひしめいていました。須原屋茂兵衛、前川六左衛門、鱗形屋三左衛門、山形屋市郎兵衛などの名店が軒を連ねていたのです。日本橋は「一流版元」の檜舞台であったのです。

 では重三郎はどのようにして日本橋に進出したのでしょうか。端的に言うと日本橋にあった地本問屋(丸屋小兵衛)の店を買い取ったのです。丸屋は古株の地本問屋であり、草双紙の刊行などを行い、表紙の絵を紅摺にするなどの試みで知られていました。ところが安永年間(1772〜1781)の刊行物はなく、営業を休止していたとも考えられています。重三郎はその丸屋の店と蔵を買ったのです。が、重三郎に(落ちぶれたとは言え)日本橋の店を買い取るだけの貯金があったとは思えないとの指摘もあります。

 ではなぜ日本橋の店を彼は買い取ることができたのか。そこにはまたしても吉原の有力者の支援があったのではと推定されています。重三郎の店は吉原細見(吉原遊郭の総合情報誌)、遊女の一枚絵などを刊行しており、同店が日本橋に店を構えることは吉原にとっても当然悪い話ではありません。重三郎の店が「吉原の広告塔」となるからです。

 ちなみにそれまで吉原にあった鳶重の店は出店(支店)となります(吉原細見を中心に営業を続けたようです)。蔦屋徳二郎の名義となったようですが、彼がどのような人物かは不明です。それはともかく、吉原から江戸日本橋に進出してくる本屋などこれまで存在しませんでした。しかも古株の地本問屋(丸屋)を買い取って参上したとなると江戸っ子の評判となったでしょう。丸屋は時代の変化について行けず、ついに重三郎の買収に応じたようですが、重三郎もいつ同じ運命を辿るか分かりません。そうならないために重三郎はどのような商売をしていったのでしょうか。


【主要参考文献】

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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