大河ドラマ「べらぼう」鱗形屋孫兵衛が凋落していったある不祥事とは?

 大河ドラマ「べらぼう」第7回は「好機到来『籬の花』」。蔦屋重三郎(江戸時代後期の出版業者)が新しい「吉原細見」(吉原遊郭の総合情報誌)を作るため奮闘する様が描かれました。

 安永4年(1775)7月、蔦屋重三郎は吉原細見『籬乃花』を刊行します。重三郎が「吉原細見」を刊行できたのは、それまで同書を独占的に刊行してきた大手版元・鱗形屋孫兵衛(江戸の地本問屋)が「吉原細見」を刊行できる余裕がなくなったからとされています。

 その要因は、鱗形屋の手代が字引の海賊版を手広く制作していたことによるとされます。手代は家財を没収され、孫兵衛は罰金刑に処されました。とは言え、鱗形屋はそれ以降、書物を刊行しなかった訳ではありません。黄表紙(大人向けの絵入り小説)の刊行を手掛けており、それなりに利益を得ていたのですが、時が経つにつれて、黄表紙の刊行点数も徐々に落ち込んでくるのです。そして安永9年(1780)には黄表紙を刊行できない状態となってしまいます。鱗形屋の経営が手詰まりになってきたのがその1つの要因とされます。

 重三郎の出版業は鱗形屋の小売店から出発したのですが、鱗形屋の衰退は重三郎の商売にも影響を与えており、安永7年(1778)には「吉原細見」のみしか刊行しておりません。これは「系列店に仕事」を回していた鱗形屋の営業が行き詰まったためと考えられています。鱗形屋がそこまでの危機に陥ってしまったのは、経営の手詰まり以外にも要因があるともされます。

 ある武家の用人(家政を取り仕切る者)が遊興のために主家の重宝を質入してしまうのですが、その仲介をしたのが鱗形屋だったというのです。この事件により、鱗形屋孫兵衛は追放刑に処されたとのこと。鱗形屋の主人が追放されてしまっては、出版点数が激減し、経営が悪化してしまうのも当然と言えば当然です。その影響を受けた重三郎も困惑したのではないでしょうか。


【主要参考文献】

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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