大河ドラマ「べらぼう」 佐野政言は田沼意知を乱心により斬り付けたのか?

 大河ドラマ「べらぼう」第27回は「願わくば花の下にて春死なん」。田沼意次の嫡男・意知が佐野政言により斬りつけられる様が描かれました。

 意知は寛延2年(1749)に生まれますが、母は意次の後妻(黒沢定記の娘)でした。16歳の時に10代将軍・徳川家治に初お目見えした意知は、天明元年(1781)には奏者番(江戸城中の武家の礼式を司る。譜代大名が老中に昇進するスタート地点となった)、天明3年(1783)には部屋住みの身でありながら若年寄に就任します(意次は当時、老中でした)。これは異例のことであり「親の七光り」と評することもできるでしょう。

 順調に出世していく意知に悲劇が降りかかったのは、天明4年(1784)3月24日のことでした。同日の午後1時頃、江戸城中において旗本の佐野政言が突如、意知に斬りかかったのです。

 意知が太田備後守(遠州掛川藩主)や酒井石見守(出羽松山藩主)らと共に新番組の詰所前を通った時に刃傷事件が起こります。衆人がいる中で佐野は抜刀し、意知の肩に斬り付けます。殿中であったので意知は脇差を抜かず、佐野の攻撃を鞘で受け止めますが、鞘では防ぎきれません。負傷した意知は桔梗の間に逃げ込みますが、佐野は執拗に標的を追いかけ、深傷を負わせます。意知はたまらず倒れ込みました。大目付の松平対馬守が果敢にも佐野を組み伏せ、柳生久通(目付)が佐野の刀を取り上げたことで、佐野は捕縛されます。

 佐野は小伝馬町の揚屋(御家人らの未決囚が入れられた牢屋)に入れられ、取り調べを受けます。取り調べの結果、佐野は「乱心」とされたが、乱心ならば意知以外の者に斬り付けても良かったはずです。しかし佐野は意知を執拗に狙っているのです。これは佐野が乱心ではなく、意知(もしくは田沼家)に何らかの恨みを抱いていたからではないでしょうか。幕府の取り調べ結果を安易に信用するのは危険と思われます。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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