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  • 長宗我部元親
 2019/01/21

「香宗我部親泰」元親の弟。軍代・外交官として一族の中枢を担う

土佐国の一豪族に過ぎなかった長宗我部氏が、「長宗我部元親」の代で土佐国を統一し、さらに四国一帯に覇を唱えることができたのは、元親の弟である「吉良親貞」や「香宗我部親泰」の巧みな補佐や戦場での活躍があったからです。

元親を支え続け、主家に繁栄をもたらした親泰とはどのような人物だったのでしょうか?今回は、軍事面そして外交面で活躍した香宗我部親泰についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

長宗我部 国親の三男として誕生

香宗我部氏へ養子入りし家督を継ぐ

親泰は土佐国長岡郡に勢力を持つ有力豪族である長宗我部国親の三男として、天文12年(1543年)に誕生しました。幼名は弥七郎。4歳年上には嫡男の元親、2歳年上には二男の親貞がいます。この三兄弟の力によって長宗我部氏は最盛期を迎えていきます。

そんな中、親泰は香宗我部氏へ養子入りします。香宗我部氏は「土佐七雄」と称された土佐国の有力豪族の一角で知られていますが、長宗我部氏とは対照的に没落過程を辿っていました。

香宗我部は大永6年(1526年)には安芸氏と争って大敗。当主の香宗我部親秀はこのときに嫡男を失い、弟の香宗我部秀通に家督を譲って隠居。その後没落していく香宗我部氏を再興すべく、親泰を養子に迎えることを決断することに…。ちなみに『土佐国古城伝承記』によると、この養子問題で長宗我部氏に吸収されることに激しく抵抗した弟秀通を弘治2年(1556年)に暗殺したといいます。

親泰は親秀の娘を娶り、婿養子入りして香宗我部氏の家督を相続しました。これまでは親秀暗殺の年に婿養子入りしたと考えられてきましたが、永禄10年(1567年)の時点でもまだ親泰は長宗我部を名乗っており、実際の婿養子入りは永禄10年から永禄11年(1568年)頃ではなかったのかという説もあります。

次兄・吉良 親貞と共に長宗我部氏を支える

親泰の次兄・親貞は、香宗我部氏と同様に没落していた吉良氏に婿養子に入っており、永禄6年(1563年)に「吉良親貞」を名乗っています。親泰が香宗我部氏の家督を継いだのが、その前なのか、後になるのかはっきりとはわかりませんが、どちらにせよ永禄11年(1568年)の時点では国衆で最大勢力だった本山氏も降しており、長宗我部氏が土佐国統一を果たす勢いだったことがわかります。

その後は吉良氏の当主である親貞と、香宗我部氏の当主である親泰が、主家である長宗我部氏を支え続けました。『元親記』によると、親貞が軍代として土佐国西部の制圧を担当し、親泰もまた軍代として土佐国東部の制圧を任されました。

この時の長宗我部氏の勢力拡大は、とてもバランスが良く、これには土佐国国司である一条氏も危機感を持っていたようです。そして安芸郡の安芸氏と結託して元親を倒そうと画策します。

土佐国、そして四国統一

安芸郡の制圧を任される

安芸氏の当主である安芸国虎は、一条氏の協力も得て長宗我部氏の拠点である岡豊城を攻めたこともあり、武勇で知られていました。この時は一条氏の仲介で和睦していましたが、永禄12年(1569年)には和睦を破り、またも一条氏の協力を得て元親に逆らいます。

しかしすでに巨大勢力となっていた長宗我部氏には対抗できずに、滅亡。東部の制圧を軍代として担当していた親泰は、そのまま安芸郡の統治を任され、安芸城の城主となりました。安芸郡の完全制圧は天正3年(1575年)までかかったようです。

幡多郡の一条氏に対しても、西部制圧の軍代である親貞の活躍もあり、天正3年(1575年)の「四万十川の戦い」で撃破。その後まもなく幡多郡も制圧し、ここに長宗我部氏の土佐国統一が成りました。

長宗我部氏の外交窓口としての活躍

親泰の活躍の場は、戦場や統治だけでなく、長宗我部氏の外交にまで及んでいました。

安芸氏と長宗我部氏との対立の中で、国虎は親泰を通じて、元親に降伏を願い出たという説があります。約束を破って安芸氏を滅ぼすことになるのですが、親泰が外交窓口も担っていたことを示しています。

また、中央で勢力を拡大する織田信長との外交も親泰が担当しています。その結果、天正3年(1575年)には、元親の嫡男で将来を期待されていた信親の烏帽子親を信長が務めました。ここで信長から信の一字を拝領し、長宗我部信親と名乗ることになるのです。

元親は土佐国を統一した後、休む間もなく隣国に進出し、四国統一を目指しています。手始めに阿波国の海部城を陥落した際には、親泰が海部城の守備を任され、さらに阿波国南部の軍代を兼任しました。以後の親泰はこの海部城を拠点として阿波国制圧を進めていくのです。

天正8年(1580年)、元親は阿波国の支配を強固にする目的で、信長に三好氏との和睦を求めています。この使者を務め、安土城に赴いたのも親泰です。

同年には本願寺に残党が、紀伊国の雑賀衆や淡路国の勢力を率いて阿波国に侵攻してきたため、長宗我部氏は一時的に制圧していた三好氏の拠点である勝瑞城を奪還されています。しかも、これがきっかけで長宗我部氏に従属していた牛岐城(富岡城)城主の新開道善が背きましたが、親泰が巧みに説得して降伏させました。

信長は元親の四国統一を認めておらず、織田政権との友好関係は崩れ、長宗我部氏は窮地に陥りますが、天正10年(1582年)に本能寺の変が起きて信長が横死したことにより、窮地を脱しています。

豊臣秀吉への降伏

秀吉との対立

信長政権の混乱に乗じて、元親は三好氏との決戦を決めます。こうして阿波国最大の戦争とされる「中富川の戦い」が起こりました。親泰はその先陣を務めています。長宗我部氏が勝利し、三好氏側の中核を担う各城主らが多数討ち死にしました。

天正11年(1583年)には、信長の後継者の座を巡って秀吉と柴田勝家が激突。元親は勝家側に味方して戦っており、この時に親泰は阿波国木津城を陥落させる活躍をしています。

両者の戦いは秀吉が勝利し、勝家を討って織田政権をほぼ掌握してしまいました。しかし、その後、信長の二男である織田信雄と秀吉が仲違いをして、徳川家康を巻き込み激突。天正12年(1584年)には秀吉VS信雄・家康連合の「小牧・長久手の戦い」が幕を開けます。

元親はやはり秀吉ではなく、信雄に加担し、その書状のやりとりを親泰が担当しました。信雄家臣の織田信張から、備前国を親泰に与える旨の書状も受け取っています。中央が混乱している間に元親は伊予国を平定し、天正13年(1585年)には長宗我部氏による四国統一が果たされたとされています。

降伏後、朝鮮

しかし同年に秀吉の四国征伐が始まりました。阿波国で牛岐城を守備していた親泰でしたが、木津城が陥落したことで、土佐国に帰還します。そして長宗我部氏は瞬く間に秀吉に降伏し、土佐国一国のみを安堵されることとなるのです。

豊臣政権下となり、天正20年(1592年)には朝鮮出兵を命じられました。親泰は香宗我部氏の軍勢を嫡男である香宗我部親氏に任せ、自らは土佐国に残るのです。その間に太閤秀吉や関白秀次から、大船建造や伏見城普請のための材木の提供などを命じられています。

長宗我部氏の大黒柱となるはずだった親氏は、この文禄の役によって渡海した先で、21歳という若さで病没してしまいます。親泰はひどく落胆したことでしょう。翌文禄2年(1593年)、親泰が朝鮮に渡海しますが、親氏を追うようにして現地で病没しています。

まとめ

親泰亡き後、元親も慶長4年(1599年)に没すると、長宗我部氏は関ケ原の戦いで家康と敵対し敗れ、滅ぶこととなります。もし長宗我部氏の四国統一があと5年早ければ、親泰のその後の活躍ぶりも変わっていたかもしれません。長宗我部氏の立場もまったく異なっていたことでしょう。

どちらにせよ3兄弟の力をもって土佐国を統一し、さらに四国も平定したことは高く評価すべきではないでしょうか。親泰の尽力あってこそ、長宗我部氏が四国を統一できたということは間違いないと言えます。


【主な参考文献】
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)





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