大河ドラマ「べらぼう」 「ありんす」など遊廓の言葉はなぜ生まれたのか?

 大河ドラマ「べらぼう」第30回は「人まね歌麿」。

 「べらぼう」では、吉原の遊女らが「ありんす」など普段耳慣れない言葉を使っていることがよくあります。ちなみに「ありんす」というのは「あります」との意味です。吉原の遊女らが使った独特の語尾変化を持つ言葉のことを「廓言葉」とか「里言葉」「吉原言葉」と言いました。また俗称で「ありんす言葉」とも言います(以下、本稿では廓言葉と記述します)。ではこうした廓言葉はなぜ生まれたのでしょうか?

 江戸時代後期の書物『北里見聞録』は次のような説を載せています。原文をできるだけ分かりやすく現代語訳して紹介しましょう。同書は先ず、遊廓には「里諺」(廓言葉)といって遊廓外とは異なる言葉があるとします。或る老人は、このような廓言葉が生まれた要因を次のように話しました。「どのような遠国からやって来た女であってもこの言葉(廓言葉)を使う時は鄙(地方)の訛りが抜ける。元から居た女と同じように話すことができる」と。遊廓には全国から様々な女性が集まってきました。よって、廓言葉は地方の訛りを消すために発明されたというのです。同書は廓言葉として「なんせ」「みんす」「しんす」などを挙げ、これらを諸国で聞くことがない「奇語」と書いています。

 廓言葉がいつ頃、どのような形で流行っていったのかその詳細は不明ですが、元禄時代(1688〜1704)には「系統立って行われてた」とされます(中野栄三『遊女の生活』(雄山閣出版、1965年)。

 さて、江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号・静山)により書かれた随筆集に『甲子夜話』がありますが、そこにも廓言葉に関する記述があります。静山は「吉原の遊女の言葉は、江都(江戸)の言葉と違う」とし、自分も「少年」の頃に遊廓を徘徊した際によく聞いたと書いています。その上で、廓言葉は「駿府」(現在の静岡県)の方言ではないかとの説を載せているのです(駿河国の遊女が江戸に来て、この言葉が伝来。吉原遊廓の創始者と言われる庄司甚右衛門は駿河に在住していたとの説あり)。

 以上、見てきたように廓言葉の起源についてはよく分からない面もあります。しかし、諸国から様々な女性が遊廓に集う中、駿河国の方言だけが真似られたというのは少し不自然な気もします。

  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。