かつて日本中に2500人も!?路傍の広告代理店「ちんどん屋」が歩んだ栄光・衰退・再生の歴史

  • 2026/01/23
 皆さんは、生の「ちんどん屋」をご覧になったことがありますか? 実物を目にしたことはないにせよ、アニメ映画『窓ぎわのトットちゃん』の冒頭で、トットちゃんの学校前を賑やかに通り過ぎていくあの姿を覚えている方は多いかもしれません。

 彼らがなぜ、あのような奇抜な装束に身を包み、お囃子を奏でて客寄せをするようになったのか。その成り立ちや歴史については、意外にもあまり知られていません。今回は、かつて日本の街角を彩った、賑やかな音楽と愉快な踊りのプロフェッショナル「ちんどん屋」の歩みをご紹介します。

大阪の飴売「飴勝」の漫談が評判を呼ぶ

 「ちんどん屋」という語源は、行進中に鳴らす「ちんどん、ちんどん」という賑やかな音そのものから来ています。早い話が、派手な衣装を纏い、鉦(かね)や太鼓を鳴らしながら街を練り歩く人々の総称です。

 実はこの呼び名が定着したのは比較的最近で、大正時代に考案された「ちんどん太鼓」の登場以降のこと。彼らの本質はいわゆる「広告請負業」、つまり宣伝です。繁華街で看板を持って立っている「サンドイッチマン」の親戚と言えばわかりやすいでしょうか。江戸後期には「披露目屋(ひろめや)」「広目屋」「東西屋(とうざいや)」など、地域ごとに異なる名前で呼ばれていました。

 仕事のスタイルも様々で、音楽を奏でながら街を練り歩くのを「街廻り」、移動せずに店頭で集客するのを「居付き」と称します。編成は3〜5人ほど。ちんどん太鼓を筆頭に、クラリネットやサックスを吹く楽士、ゴロス(大太鼓)、ビラまき、旗持ちなど、それぞれ役目を持っているのが面白い特徴ですね。

 ちんどん屋のルーツを戦国時代に求める説では、出雲阿国のかぶき踊りから派生した説が有力視されています。元亀3年(1572)に生まれたとされる阿国は、歌舞伎の創始者として知られる踊り子です。ちんどん屋と歌舞伎のルーツが同じなんて意外ですね。

 時代は下って江戸中期、饒舌な口上で客を引き付ける行商人が人気を集めるようになります。日本橋の袂の薬屋の主人は、赤い頭巾を被って往来を流し、自慢の薬を売り込みました。そして江戸後期、大阪・千日前の法善寺で商売をしている「飴勝(あめかつ)」という飴売が脚光を浴びます。彼はとても話芸に優れ、その巧みな口車に乗せられた客たちが、どんどん飴を買っていきます。その口の上手さが大きな評判を呼び、やがて他の店の宣伝まで請け負うようになったのです。

 宣伝ならなにより目立たねば話になりません。そこで飴勝は短い法被(はっぴ)に笠脚絆、足元はわらじという粋なスタイルで決め、拍子木の調子に合わせて呼び込みをして回りました。

「今日はどこどこが安いで~」

「あそこの飯は美味いで~」

 この宣伝代行業は結果的に大当たりし、二代目・勇亀(いさみかめ)へ引き継がれていくことになります。

東の広目屋 vs 西の東西屋 ちんどん太鼓のお囃子で千客万来

 ちんどん屋の別名である「東西屋」は、この二代目・勇亀の売り文句に由来します。彼は飴勝譲りの拍子木を打ち鳴らしながら、芝居の口上として有名な「東西、東西(とうざい、とうざい)!」と叫んで客を集めました。歌舞伎や人形浄瑠璃をご覧になった方なら、開幕に合わせて「東西、東西」と、裏から声を掛けるしきたりをご存じですよね。

 これは「端(東)から端(西)まで、隅から隅までご注目あれ」という意味です。まさにちんどん屋の登場を告げるにはピッタリな合図です。大阪における東西屋誕生は弘化2年(1845)。それから遅れること約40年、明治14年(1881)に東京に広目屋が登場しました。

広目屋(『世渡風俗圖會』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
広目屋(『世渡風俗圖會』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 広目屋の名は、結婚などの吉事を披露する「お披露目」から来ています。東京で彼等が躍進した背景には、明治7年(1874)に発売された「木村屋のあんぱん」が大きく関わっています。当時のあんぱんは、文明開化を象徴する食べ物であり、明治天皇の好物でもありました。そこで木村屋は広目屋と組んで、あんぱんを大々的に売り出したのです。

 一方、大阪では、豆や栗の行商人「波屋九里丸(なみや くりまる)」という風雲児が登場、口上が評判を取ります。彼は松と羽衣を染め抜いた長襦袢を羽織り、忠臣蔵のコスプレで町を練り歩きました。自らは拍子木を、相方には太鼓を叩かせ、忠臣蔵の討ち入りをイメージした音楽を奏でるという徹底ぶりでした。

 日清戦争前後になると、ちんどん屋の需要は爆発的に増加します。出征軍人の送迎、活動写真(映画)やサーカスの巡業、煙草や歯磨きの宣伝に至るまで雇用の幅が広がります。ライオン歯磨やキリンビールの宣伝もちんどん屋が行いました。九里丸はこの仕事を「滑稽鳴り物入り路傍広告業」と称し、盛大にラッパを吹き鳴らしたそうです。

 野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』にも、ちんどん屋が描写されているのを見ると、海峡を隔てた北海道まで広まっていたんでしょうね。

ちんどん屋に氷河期到来 戦時下の沈黙と戦後復興のメロディ

 しかし、大正時代に入ると景気が低迷し、広告取締法の施行も相まって、ちんどん屋は徐々に衰退していきます。これは新聞や雑誌の広告がちんどん屋に取って代わり、普及し始めたせいです。さらに決定的な打撃となったのは、昭和16年(1941)からの太平洋戦争でした。

 戦時中、日本政府は国民に質素倹約を命じました。昭和15年(1940)には国民精神総動員運動のスローガンとして「ぜいたくは敵だ」の標語が誕生。規制対象には華美な服や音楽の他、活動写真や大道芸などの幅広い娯楽が含まれ、ちんどん屋にも活動禁止令が下されます。前述した『窓ぎわのトットちゃん』の舞台は昭和15年(1940)。映画の冒頭でトットちゃんが見送ったあのちんどん屋一行も、その翌年には仕事を奪われ、楽器を置かざるを得なかった……そんな時代の悲しみが、物語の裏側には隠されているのです。

 そんな「氷河期」を経て、戦後の復興期にちんどん屋は再び息を吹き返します。当時はまだテレビが普及していなかったので、街頭宣伝の主役はやはりちんどん屋でした。昭和30年代にはサーカス芸人や旅役者も合流し、2500人までちんどん屋人口が膨れ上がったと言います。彼等はちんどん太鼓を抱えて下町を練り歩き、老若男女に笑顔を咲かせました。この頃にはちんどん屋を詠んだ俳句が流行り、少女小説家の吉屋信子が「チンドン屋 吹かれ浮かれて 初嵐」と、ノスタルジックな情景を紡いでいます。

おわりに

 以上、ちんどん屋の成り立ちでした。飴勝の掛け声から始まった驚きもさることながら、ド派手な忠臣蔵コスプレで客を沸かせた、九里丸の商魂逞しさは見習いたいですね。


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  この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。

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